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生実城跡
登城日:(2002.11.04)
所在地: 千葉市中央区生実町1551他
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 見事すぎる薬研掘  ここ生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する重要な拠点であったため、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられました。天正十八年(1590)原胤栄が、徳川家家臣・酒井家次との”野田十門字野の戦い”で戦死するまでの52年間存続しました。その後、一時幕府の直轄領となりましたが、寛永四年(1627)森川出羽守重俊が生実藩一万石の藩主となり、明治初頭まで生実城の一郭に陣屋を構えていました。
 生実城跡の南側を通過する都市計画道路の整備に伴う発掘調査により、戦国時代から近世に至る多量の遺構・遺物が検出され、いままで文献のみでしか知ることができなかった生実城の素顔が明らかになってきました。これまでに、戦国時代から近世まで使われた堀跡、4体の人骨を埋葬した地下式礦(墓)・井戸跡・建物跡などの遺構と、「享禄四年」(1531)銘のある庚申待板碑や多数の陶磁器などの遺物が検出されています。

◆掘跡
 戦国時代の生実城の掘跡は、「薬研掘」と呼ばれる深いV字形の断面をしています。深さは6mほどもあり、焼土や炭の混じった層も多く、戦乱の激しさを物語っています。
 また、掘底を利用した井戸もつくられています。右の拓本は、井戸の暗渠に転用された板碑ですが、1531(享禄4)年の銘から、生実城築城の年代を知る手がかりになりました。
 江戸時代になると、浅く広いU字形の断面の堀に改められ、堅く踏み締められた面が多くみられます。陶磁器のかけらも散乱し、生活の場として活用されていたようです。

『生実城跡案内板』より

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資料  

私見 薬研掘の地層が分かりやすいですね。  生実城は同じ読み名の小弓城と混在しそうでややこしいですね。別名に北小弓城とも言われています。
 徳川領となってからは森川氏が明治まで統治していくことになります。小弓藩初代森川重俊は、徳川秀忠の近侍でしたが、軍功により小弓に封じられ、北小弓城跡に陣屋を構えました。以後重俊は老中にまで登りつめましたが、寛永九年の秀忠の逝去の時に殉死しました。
 その森川氏の菩提寺として、城跡の碑の近所に森川山重俊院があり、そのなかに森川氏一族の墓碑が立てられています。
 城跡はかつての位置は道路が分断してしまい、ほとんど遺構はありませんが、神社の脇にある大きな掘跡だけで当時の城割の規模がうかがい知ることができますよね。町中にある小さな神社の鳥居をくぐるとそこには道路脇からは想像もできないほどの立派な掘が迎えてくれるなんて、素晴らしいです。
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