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小金城跡
登城日:(2001.09.01)
所在地: 松戸市大谷口、大谷口歴史公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 小金城跡の虎口の1つ金杉口 ◆金杉口跡
 ここは金杉口と呼ばれる小金城の虎口(出入口)の一つです。小金城には大手口(東)、達磨口(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の四つの虎口があったとされています。
 西側の低地から城内へ入ると正面と南側は高い急斜面にあたり北へ進むことになります。
 ここには、三段(推定)の階段を持ち、最上段には門柱を立てたと思われる土壇(砂を突き固めた、径約六十センチ〜一メートル、高さ約十センチが四ヶ所見つかりましたが、その構造までは解りません。奥に広がる広場は斜面部に土を盛って人工的に造った広場です。さらに奥に進むと空堀があります。堀の外側を進んで行き、大勝院の裏手から城内へ入ったものと推定されています。

◆堀(障子堀)
 中世城郭の特徴は、自然地形を巧みに利用していることにありますが、金杉口では、さらに自然の斜面を削って急傾斜とし、その下部に幅四メートル以上、深さ約ニ.五メートルの空堀が造られています。
 この空堀は、虎口から約二十メートル程の地点から掘られており、途中一ヶ所に高さニメートルの間仕切り(障子)が造られて堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっています。このような構造のものを「障子堀」と呼んでいます。また、この空堀は、砂地を掘り下げて造られているため底、壁共に砂質で、非常に水捌けはよくなっています。
障子掘
◆土塁
 土塁とは、土を掘り下げて造った土手状の防御施設のことで、通常は堀を掘った土を盛り上げて造ります。
 金杉口では西側から北側にかけてL字状に見られます。その構造は、城の内側を約五十センチ掘り下げ、台地の縁辺部に土塁の底になる部分を幅約三メートルの帯状に残します。その上に粘土を盛り上げて高さ約一.五メートルの土塁としています。土塁としては低く見えますが、外側の空堀の構造から見て、敵の侵入を防ぐと云うよりも、自分の身を隠す程度の機能であったろうと思われます。  小金城では、他に粘土や赤土(関東ローム)をそれぞれ約十センチ位の厚さで突き固め、それを交互に高さニメートル以上に積み上げた土塁も確認されています。

◆堀(畝堀)
 ここで発見された堀は幅七メートル、深さ約三メートル(現地表面から)と規模では普通です。しかし、堀底に断面が蒲鉾形の畝(高さ約九十センチ)が堀の方向と直行する向きに連続して造られた、全国的にも非常に珍しい構造をしています。この施設の利点は、侵入した敵が堀底の小溝に足をとられ、横への移動がしずらくなり、その敵を狙い討てることだと云われています。特にこの畝堀は、畝部分が粘土層を掘り込んでおり、非常に滑りやすく、効果的となっています。
 掘底に加工を施した掘は、関東地方では小田原北条氏の軍事的勢力下にあった城に多く見られるところから、小金城(高城氏)の戦国時代末の状況が、古文書だけでなく、城の施設からも伺うことができそうです。

 小金城の規模は南北約六百メートル、東西約八百メートルに及ぶ県下最大級の中世城郭です。下総台地西端の複雑な地形(高低差が約十五メートル)を利用し、さらに大規模な土木工事を施すことによって高さニ〜三メートルの土塁、深さ十メートル前後の空掘を縦横にめぐらせ、台地上を比定し本城、中城、馬場など九〜十の曲輪を連続させる構造となっています。
 小金城主の高城氏は千葉氏の一族、または千葉氏から分かれた原氏の一族といわれ、松戸での活動は十五世紀中ごろに栗ヶ沢に砦を築いたのに始まり、その後勢力を増すごとに根木内城、小金城と本拠地を移してきたといわれています。戦国時代の末には小金城を拠点として現在の松戸、市川、船橋、鎌ヶ谷、沼南、柏、我孫子などを支配し、東葛飾地方最大、下総国有数の領主、武将となりました。天文七年(1538)小弓公方足利義明が国府台で北条に敗れたのちは北条氏に従うようになりました。
 天文十八年(1590)豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、小金城も同城と運命を共にすることとなり、北条氏滅亡後は徳川家康の所領となりました。

『小金城跡案内板』より

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資料  

私見 畝掘  最寄りの駅となるのが、総武流山電鉄の小金城址駅であることから、非常にわかりやすい扱いを受けているんだろうなぁと安心して行ってみました。城域となっている一帯の多くが宅地化されていくなかで、大谷口歴史公園として、なんとか保存されています。
 公園の金杉口から登城してみますと、虎口の一つである金杉口に木で入り口を再現されているのに出会います。そしてすぐ先には障子掘がありました。山中城以来の障子掘です。しかし、この小金城はそれだけではなく、なんと畝掘までが発掘されていました。
 また主郭となる部分には土塁がまわりをぐるりと取り囲んでいるのが残されています。予想以上の保存状態に感動でした。しかし、これだけよく保存されているにもかかわらずやはり石垣は全然ないんですねぇ。西日本の城が懐かしくなってきました。
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