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大多喜根古屋城跡
登城日:(2003.05.10)
所在地: 夷隅郡大多喜町泉水字岡部台
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 櫓台風?な根古屋城跡  大多喜根古屋城の地は永正、大永のころ、上総真里谷城主武田信興の勢力範囲であったので、当時武田氏と対抗していた房州の里見氏はかねてから東上総方面を侵略しようと図っていた。信興は里見氏の侵略に備えて、次男信清をして上総小多喜の郷に根古屋城を築城し、里見氏に備えた。これが根古屋城の始まりである。武田氏は二代続いたが二代目朝信は天文十三年里見氏の将、正木大膳亮時茂と上総苅谷原で戦い大敗して自害し、時茂は根古屋城に入城、東上総は里見氏の勢力下に入った。其の後、時茂は里見軍に従って相州の北条氏と戦い、勇名房総になりひびき鬼大膳といわれた勇将となった。正木氏は憲時、時尭と三代続き、天正十八年時尭の時、徳川家康の名将本多忠勝と戦って落城、時尭は伯耆倉吉に移り正木氏は三代にして亡びた。家康は忠勝に対し大多喜根古屋城十万石をあたえた。忠勝は根古屋城の防備が近代戦にそわないと考え、その西南1.5キロの地を選定、精細な城郭図をそえて築城を願い出た。家康は戦功顕著な忠勝に対して心よく許可したので、近世大多喜城が築城され中世大多喜根古屋城は廃城となった。

『大多喜根古屋城跡案内板』より

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資料  

私見 大多喜根古屋城址  北側は住宅地が、そして南側が田圃がひろがりそのさきには大多喜城が見えています。そんなロケーションのなか、根古屋城跡は3メートルほどの高さの櫓台風な高台の上に城址碑がたっているだけでした。このあたり一帯がかつての大多喜根古屋城だったのでしょうが、たしかにひらけすぎてて守りにくいでしょうね。訪問したときは猫が巣を作ってました(笑)。
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