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■ 天正の三木合戦付城分布図


 天正の世、天下統一を目指す織田信長は、中国地方の戦国大名毛利氏を攻めるため家臣の羽柴秀吉を総大将として毛利攻めの軍勢派遣させました。その進攻ルートにある播磨武者らは当初、羽柴勢に加勢し毛利を攻める姿勢を見せていたのでしたが、東播磨を領有する三木城主別所長治との交渉が決裂するや、別所方播磨武者は一同毛利方につくこととなります。そしてそれは天正六(1578)年六月、織田方との間で繰り広げられる『三木合戦』の幕開けとなるのでした。
 『三木合戦』は、別名「三木の干殺し」と呼ばれ、天正八年(1580)1月までの約1年8ヶ月、羽柴秀吉は三木城を力攻めにせず兵糧攻めで三木城を攻撃しました。地の利を活かした播磨勢の予想以上の反撃を警戒したことによるものだったか、はたまた本来の目的である毛利との決戦のために体力を温存する為だったのか・・。秀吉は三木城を裸同然とするため、各地に点在した別所方の城を確固撃破し徐々にその包囲網を確たるものとして形成していきました。なかでも特筆すべきは総数30以上にも数えられる付城、陣城の構築でした。三木城を遠巻きにして水も漏らさぬ布陣をここまで形成した例は全国的にも極めて珍しいことでしょう。また現在では三木市がさまざまな調査発掘を行ったり、史跡整備を行っていますので三木市内をめぐっていけば当時の激しい戦いぶりに想いを馳せることができるのではないでしょうか。

久留美付城跡
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堀尾吉晴
慈眼寺山付城跡
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有馬法印則頼
加佐山上付城跡
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杉原七郎右衛門家次
平田村山ノ上付城跡
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古田馬ノ介
跡部山ノ下付城跡
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織田七兵衛信澄
細川荘中村付城跡
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荒木村重
平井村中村間ノ山付城跡
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竹中半兵衛重治
平井山本陣跡
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羽柴秀吉
久留美村河岸付城跡
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中村一氏
鳥町河原ノ付城跡
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別所重棟 平井山本陣跡
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羽柴秀吉
与呂木村ノ上付城跡
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羽柴秀長
跡部村加佐村間ノ付城跡
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木下将監
安福田山上付城跡
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板倉勝助、丹羽権兵衛
三木城跡
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別所長治
宿原付城跡
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馬場治左衛門
安福田川端ノ付城跡
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山岡文蔵
和田村四合谷村ノ口付城跡
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近藤兵部、五十嵐九郎右衛門
法界寺山上ノ付城跡
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宮部善祥房継潤ら
八幡谷山上明石道付城跡
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間嶋彦太郎、福原馬之助
君ヶ峰城跡
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羽柴小一郎秀長
包囲網多重土塁跡
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全長4キロにも及ぶ
高男寺城跡
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青木治部一矩、三好志摩守
箕谷ノ上付城跡
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糟谷武則 二位谷奥ノ付城
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浅野長政ら
大塚城跡
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守将は不明
明石道峯構付城跡
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守将は不明
シクノ谷峯構付城跡
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守将は不明
小林八幡神社付城跡
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守将は不明