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徳島城跡
登城日:(2001.02.10)
所在地: 徳島市城ノ内
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 数奇屋橋と外掘  徳島城(別名 渭津城)は、天正十三年(1585)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。幕藩時代を通じ蜂須賀家が十四代にわたって居城し、二百八十余年の間、阿波・淡路両国二十五万七千八百石を支配した。
 鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。幕府に鷲を飼うからと申し立て建設したところから鷲の門の名があると伝えられている。
 廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和二十年(1945)七月四日早暁の徳島大空襲によって焼失した。
 現在の鷲の門は、平成元年(1989)九月二十七日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。
鷲の門 ◆下乗橋(小見付橋)
 城内の掘に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入口にあたり、この橋を渡ると桝形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていました。
 下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来しています。
 明治二年(1869)に花崗岩製となり、さらに同四十一年(1908)現在のように水平の橋に改造されました。
公園化された城内 ◆蜂須賀家政公銅像
 蜂須賀家政公(藩祖)は、天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正十四年(1586)に一宮城から中世に築造された渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。
 戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。それが昭和四十(1965)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わった。

「徳島城跡案内板」より

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資料  

私見  徳島博物館を中心に公園化された徳島城は中世より渭津城(渭山城)として城山に小城が築城されていました。
 ものの本によるとたいした遺構がないと書かれていたのですが、私には十分です。まず、公園裏手側にある駐車場に車をとめ、掘にそって数奇屋橋横を通り、鷲の門前までいきました。
本丸跡手前の石垣  この鷲の門って戦時中に焼失してしまって、後に個人が復元寄贈したっていう大変ありがたいものなんです。しかし・・私にはとてもマネできない城好きぶりです(笑)。  そして下乗橋を通り枡形を抜けるときれいに整備された市民公園といった風情です。博物館が一番大きな建造物なのですが、それは無視して公園内を一周します。ところどころ荒々しい自然石で組まれた石垣が味があっていいですね。そして公園奥にある城山を登っていきます。
 城山への登城道は四ヶ所つくられています。そのうちのなだらかな坂道を上がっていきます。海抜60mあまりなのでたいしたことない小山をあがりきると本丸跡には護国神社がたてられています。まったく遺構は残されていないとは思ってましたが、このあたりにはしっかりと高い石垣が残っています。しかもよく私が目にする石ではなく、あれなんていう石なんでしょう・・・・(^^;
 天守台跡、二の丸、三の丸跡には特に見るものがありません。あとは下山して蜂須賀家政公の銅像をおさめて攻城終了です。
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