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徳島城跡
登城日:(2001.02.10→2008.07.26)
所在地: 徳島市徳島町城内
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 徳島城の数寄屋橋そばの濠  徳島城(別名 渭津城)は、天正十三年(1585)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。幕藩時代を通じ蜂須賀家が十四代にわたって居城し、二百八十余年の間、阿波・淡路両国二十五万七千八百石を支配した。
 鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。幕府に鷲を飼うからと申し立て建設したところから鷲の門の名があると伝えられている。
 廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和二十年(1945)七月四日早暁の徳島大空襲によって焼失した。
 現在の鷲の門は、平成元年(1989)九月二十七日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。
徳島城の鷲の門 ◆下乗橋(小見付橋)
 城内の掘に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入口にあたり、この橋を渡ると桝形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていました。
 下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来しています。
 明治二年(1869)に花崗岩製となり、さらに同四十一年(1908)現在のように水平の橋に改造されました。
徳島城の特徴的な石垣 ◆蜂須賀家政公銅像
 蜂須賀家政公(藩祖)は、天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正十四年(1586)に一宮城から中世に築造された渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。
 戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。それが昭和四十(1965)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わった。
◆旧徳島城表御殿庭園(通称 千秋閣庭園)
 この庭園は、もと阿波、淡路両国を領有した蜂須賀公の居間や表書院の庭先に当たったもので上田主水正(宗箇)の作庭といわれ枯山水庭と築山泉水庭の二庭からなり池泉廻遊式と観賞式を兼ね備えた庭園です。
 ことに枯山水庭中島には、初代藩主蜂須賀至鎮公(義伝公)踏割の伝説がある長さ10.6メートル(三十五尺)の自然石橋と豪華な御影石(花崗岩)の切石橋を架け築山には、北宗画風の遠山石を組み蘇鉄を植栽した豪壮かつ優美なものです。また庭内最深部の、観音山を源とする築山泉水庭は、池に二個の中島を配した心字池となし、特に池汀における多くの石組は、他に類を見ないものです。 築山に組まれた枯滝の手法は、静寂な谷川の滝組と共に作庭当時の遺構をよくとどめており阿波の特産である青色緑泥片岩を多数使用した地方的特色のある桃山様式の庭園として傑出したものです。徳島城の表御殿庭園

 徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
 本丸は標高約61メートルの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分のなかでは最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。
 本丸の出入り口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門」)があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。
 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般には、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
 西二の丸には鉄砲櫓と帳櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられました。
 西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています。

「徳島城跡案内板」より

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私見 徳島城の山上部にある石垣  徳島城博物館を中心に公園化された徳島城は中世より渭津城(渭山城)として城山に小城が築城されていました。
 ものの本によるとたいした遺構がないと書かれていたのですが、私には十分すぎです。まず公園裏手側にある駐車場に車をとめ、掘にそって数奇屋橋横を通り、鷲の門前までいきました。
 この鷲の門って戦時中に焼失してしまって、後に個人が復元寄贈したっていう大変ありがたいものなんです。しかし・・私にはとてもマネできない城好きぶりです(笑)。  そして下乗橋を通り枡形を抜けるときれいに整備された市民公園といった風情です。博物館が一番大きな建造物なのですが、それは無視して公園内を一周します。ところどころ荒々しい自然石で組まれた石垣が味があっていいですね。そして公園奥にある城山を登っていきます。
 城山への登城道は四ヶ所つくられています。そのうちのなだらかな坂道を上がっていきます。海抜60mあまりなのでたいしたことない小山をあがりきると本丸跡には護国神社がたてられています。まったく遺構は残されていないとは思ってましたが、このあたりにはしっかりと高い石垣が残っています。しかもよく私が目にする石ではなく、あれなんていう石なんでしょう・・・・(^^;
 天守台跡、二の丸、三の丸跡には特に見るものがありません。あとは下山して蜂須賀家政公の銅像をおさめて攻城終了です。
徳島城の本丸跡  7年ぶりに訪城すると前回見えてなかったものが随分と見えるようになっているものですね(^^;。まず石垣ですが、緑色片岩の荒々しい野面積みの石垣が徳島城の石垣として特徴的ですが、一通り歩いてみると打ち込みハギや切り込みハギのものも見られます。時代を経て少しずつその形状を変えていった様子が伺えますね。また数寄屋橋や堀川の北や城山貝塚付近の石垣には明治期に積み直したものも多くあるようで、よくよく見ても見極めるのが難しいところがあります。きっと分かる人が見れば一目瞭然なのでしょうね。(-_-;
 今回は山上部の石垣にも注目したくてあがってみました。山上部も石垣の積み方を見れば編年ぶりがうかがえるので、何段階かに分けて拡張していったことがわかるということですから実に興味深いですね。すぐにそれとわかる継ぎ足し部分だけでも確認できると嬉しくなってきます。
 そして以前は足を向けなかった徳島城博物館に入ってみます。暑くて涼を求めたのと100名城のスタンプが目的です。またそこで購入した『徳島城』も読みごたえあるいい本でした。
 あ、忘れるところでした。鷲の門から公園内に入って左手にあるトイレには蜂須賀家の「卍紋」がビニールテープで作られていましたよ。このこだわりは素晴らしいです(笑)。残念ながら男性トイレしか確認しませんでしたが。
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