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道灌山
登城日:(2002.03.10)
所在地: 荒川区西日暮里四丁目、西日暮里公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
道灌山  西日暮里四丁目の台地は道灌山とよばれ江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山、そして下総国府台(現市川市)などをのぞむことができた。  当時は薬草が豊富で、一年中採取者が訪れていたという。また、虫聴きの名所として知られ、涼を求めて人々が集まったところでもある。
 安藤広重の錦絵や正岡子規の歌などによっても当時がしのばれる。

 道灌山は、上のから飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政三年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里四丁目附近にその名が記されています。この公園を含む台地上に広がる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
 道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道燗が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。
 道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。
 道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中ごろになると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。

 桃さくら鯛より酒のさかなには
   みどころ多き日くらしの里  十返舎一九


 雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。

 明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、『道灌山』という紀行文を著しました。

  山も無き武蔵野の原をながめけり
    車立てたる道灌山の上   子規

 昭和四十八年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。


◆道灌山遺跡

 開成学園第二グラウンドを中心に広がり、縄文時代(およそ8000年前)から江戸時代にわたって営まれてきた集落址である。  これまでの調査により、縄文時代の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)、平安時代の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グラウンドの北側から検出された環濠は幅約1.6メートル、深さ約1.3メートルで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥生時代集落の居住区域の北限を示すと考えられる。

『西日暮里公園内案内板』より

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資料
 

私見
道灌山  営団千代田線「西日暮里」駅を出たところからまわりを見渡してみて小高い台地があり、西日暮里公園となっているところが道灌山と呼ばれ、太田道灌が砦を築いたといわれているところです。また一方では地元の土豪、関道灌が屋敷を構えたとも言われているんですね。確かに地形から見て屋敷や砦を築くには格好の場所だと思います。
 天気のいい週末にいったこともあってか、区民の憩いの場であることだけは確認してこれました。遺構なんて・・・ないです。
 城跡とするか館跡とするか悩みましたが、結局城郭体系にならって『道灌山』とすることにしておきます。全然城じゃない・・(T_T)
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