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平山季重氏居館跡


登城日:(2006.04.28)
所在地: 日野市平山五丁目、六丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
図書館脇には平山季重居館跡碑があります。  平山季重(すえしげ)遺跡の碑が建てられている周辺は、もと曹洞宗由木永林寺末・大福寺のあったところで、古く平山季重の館跡であったと伝えられている。文化二年(1805)、大福寺を訪れた平山正名(下総国香取郡鏑木村・季重の子孫と称する)は寺内の季重の墓に詣で、その荒廃を嘆いて修復を発願した。その意思は子の正義に受け継がれ、遺跡の碑は正義によって建てられた。碑文の筆者は幕末の剣客として有名な男谷精一郎信友である。季重居館跡の碑は、大正十四年(1925)に七生青年団平山支部によって建てられた。
平山季重氏居館跡とされている宗印寺
◆都旧跡 平山季重墓
 平山季重は平安末期、鎌倉初期の東国武士の典型である。平山氏は武蔵七党の中の一つ西党に属し宗家日奉氏の分派になる。秋川流域を中心として後代この地を支配した小宮氏は平山氏の同族で政権の移転によって改姓したのではないかという説もある。健保元年(1213)五月の和田の乱で横山党は滅亡したが、同族の平山氏はこの乱に加担しなかったと思われる。季重は一の谷合戦に際し熊谷直実、直家父子とともに勇名をはせたことが活写されているように、豪放大胆な関東武士の面影をあますところなく発揮し、さきの保元、平治の乱にも活躍した人物である。
 五輪塔の高さは1.7メートル、旧平山小学校内にあったが、大福寺が明治六年(1873)に廃寺になったので現在地に移転された。この墓は季重二十五代の孫松本藩の平山季長が追悼のために建立したものである。

『現地案内板』より

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資料
 

私見
宗印寺内にある平山季重の墓石  京王線「平山城址公園」を降り、駅前図書館の反対側に平山季重居館跡碑が建てられていました。この一帯がかつての居館跡だったということですが、実は他にも説があるようですね。駅前の通りを平山城方面に5分ほど歩いた山の中腹にある宗印寺がそれです。同寺内には季重の墓石があり、境内からは周囲を一望できることができる眺望がありました。
 この辺のことはあまり詳しいことを知らないので見たままにとどめておきます(^^;。そしてそのまま平山城へと足を向けることにします。
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