HOMEへ  

祇園城跡
登城日:(2002.11.09)
所在地: 小山市城山町、城山公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 小山氏の城、祇園城跡  平安時代に藤原秀郷が築いたという伝承もありますが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半のころからです。この城を築いたとき、城守りの神として祇園社(現在の須賀神社)をまつったことから、祇園城と呼ばれるようになったと伝えられています。
 西に思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城されたころは現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀になってからのことでしょう。戦国の動乱にさいして、小山氏は越後の上杉氏や小田原の北条氏といった有力な戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祇園城は陥落、小山秀綱は追放されました。その後氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。
深くえぐられたように残る堀跡  やがて北条氏も滅亡し、江戸幕府成立後本多正純が3万石で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西約400m、南北約700mnいおよぶ城郭となりました。この正純も元和五年(1619)宇都宮へ転封となり、祇園城は廃城となりました。

『祇園城跡案内板』より

【戻る】

資料  

私見 3つの曲輪が堀で区切られています。  祇園城ははじめは小山城として小山氏の本拠となっていた城でした。思川沿いの台地上に築かれ、巨大な規模の天然の外堀として思川を利用した、要害堅固なものだったようです。思川に沿って大きく3つの曲輪にわけられた連郭式で、それぞれは深い掘で区切られています。また土塁も多く見ることができ、城山公園としてはうまく保存されているなぁと感じます。
 城山公園正面から1つめと2つめの曲輪との間に設けられた赤い欄干の橋は祇園橋として、この祇園城のシンボルのようになっている感じです。その下には大きく堀跡が存在しており、下から見上げた光景はまさに圧巻です。が、今日はその橋の下に特殊な車が駐車されていてとても写真が撮れそうになかったのはほんと残念でした。
 そういえば小山といえば関が原の戦い前夜の小山評定を思い出しました。徳川家康が石田光成にわざと隙を見せて、会津の上杉景勝を討伐せんと向かう途中、石田光成挙兵の一報が入ります。その知らせを受けた家康はここ小山で評定を行ったのです。現在は小山城に近い小山市市役所のあるところらしいです。なんか羨ましいですね。
【戻る】