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勝山城跡
登城日:(2003.05.05)
所在地: 塩谷郡氏家町氏家
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 本丸を取り囲む空掘  勝山城は、鬼怒川を見下ろす崖端城として鎌倉時代末頃に氏家氏によって築かれ、その後慶長二年(1597)の廃城までおよそ300年の歴史を持っています。現在の塩谷町から芳賀町まで広がる氏家郡24郷支配の拠点ですが、また宇都宮氏の配下として北辺を守る役割も果たす重要な場所でした。南北朝期から戦国期を通じては、芳賀駿河守が城主となっています。その間に改修が行われ、城の各所に堅固な設備が見られます。
勝山城、本丸跡  現在確認されている城域は、南北450メートル、東西は北辺で325メートルあり、段丘先端部の本丸をL字型に二の丸、三の丸が囲む連郭式の縄張りが想定されます。
 本丸は、内径で東西80メートル、南北70メートルの方形で一周する土塁は本丸内の高さ3〜5メートル、掘底からは7〜8メートルあります。本丸東側の一段低い土塁部分が大手で、掘内に四脚の橋が架けられていました。大手北側の櫓台が張り出して横矢掛けの構造を備えています。南西部の搦手は土塁の折を利用した横矢掛けの施設と橋があります。

『勝山城跡案内板』より

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資料  

私見 鬼怒川に面した搦め手側の二の丸  勝山城はほんとうによく整備された城跡でした。二の丸東郭跡には氏家ミュージアムが建てられてしまっていますが、そのおかげでバイクで本丸を囲む空掘の手前までいくことができるようになっています。
 本丸の周りはかなり深い掘があり、大手側は木橋が掛けられています。ここ、昔も橋がかけられていたようで橋脚の跡が4つ見つかっています。
 橋を渡れば方形状の本丸が広がります。平坦な地形に芝生が綺麗に生え揃っています。周囲は土塁が取り囲み大手、搦め手の2ヶ所だけが通行できるようになっています。そのまま搦め手に出ると鬼怒川が眼前に広がり、鬼怒川沿いの河岸段丘にあることがよくわかります。ここにも深い掘と背の高い土塁が印象的でした。あまりにも綺麗に保存されているのですが、このままの状態を維持していっていただきたいですね。
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