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放生津城跡
登城日:(2003.05.24)
所在地: 新湊市中新湊、放生津小学校
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 グラウンドを囲む土塁跡?  その初めは、鎌倉幕府の越中の守護所として今からおよそ七百年前、正応三年(1290)に関東、北條氏の命を受けて北陸道の守護職として来たその一族の名越時有が築いた。
 もとは鉢伏城とも名古城とも呼ばれた。その構造は本丸が南北七十間で西方二十四間、東方四十六間の守護職の館を兼ねた平城であった。
 元弘三年(1333)五月十七日に城主の名越時有が京都へ攻めのぼる南朝の官軍を迎えうち、敗れて城に火を放ち自害した。
 時代の移り変わりとともに城に流転した。
 北條氏から室町幕府の畠山氏、そしてその代官の神保氏と親子三代の長誠慶宗、長職、前田氏の臣、山崎長鏡へと住む人変わって元和六年(1602)に廃城
 この城跡は明治初年頃まで加賀藩米蔵屋敷であった。

『放生津城跡案内板』より

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資料  

私見 グラウンドを囲む土塁跡?  鎌倉期から存在していた放生津城は、その城主が数多く替わった、歴史的にもかなり活躍した城であったようですね。現在は放生津小学校となっているのですが、グラウンドを取り囲むようにして存在している土塁跡のような土盛りはかなり存在感をもっています。
 でも日本城郭体系だと『遺構は残さない』と書いてありますし、一体何なのでしょうか。
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