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菊ヶ浜台場(女台場)跡


登城日:(2006.11.27)
所在地: 萩市大字今魚店町など、女台場公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
現在も当時の壮大な姿を想像できる菊ヶ浜台場の土塁跡  文久三年(1853)5月10日の攘夷決行の日、下関の萩藩馬関砲台は関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えたが、反撃を受け、大損害を被った。これを機に萩藩は外国船の来襲に備えて菊ヶ浜に土塁の築造を住民に命じた。土塁の築造に当たって、特に武士の妻や奥女中の功績が大きく、通称「女台場」と言われている。また、山口県を代表する民謡「男なら」はこのときの作業唄として歌われたもの。現在、高さ3メートル、幅12メートルの土塁が50メートルにわたって比較的よく旧態を保っている。

『菊ヶ浜台場跡案内板』より

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資料
 

私見
現在も当時の壮大な姿を想像できる菊ヶ浜台場の土塁跡  萩城に程近い海岸、菊ヶ浜には現在もその姿をよく残す菊ヶ浜台場の土塁を見ることができます。ここまでの幅を持つ土塁は城跡でもそうそうお目にかかれない立派なものですね。それを幼児から老人や女中など多くの住民によって築かれたというのですから、住民パワーはバカにできません。
 土塁を構築した土砂は主に菊ヶ浜の北東に位置する鶴江台から持ってきたものだそうですが、ここも台場だったのですよね。台場壊してまでここに土塁を積み上げたかったんですね。
 土塁はただ1直線にのびたものではなく数メートルから数十メートルの長さの土塁がまるでスライドドアのように少しの重なりを残したままずらして築造されています。現在残っているのはごく一部で実際には海岸線に沿ってさらに北東部に伸び、現在の阿武川の河口までつながっていました。さぞかし壮観な眺めだったのでしょうね。主戦力の男たちは出てしまっており、いつ外国船の襲撃を受けるかもしれないという恐怖が普段土木工事経験のない住民に計り知れないパワーを引き出させたのですね。現在残る土塁はそうした住民たちの恐怖を浮き彫りにしているという見方も出来る、大変貴重なものだと言えそうです。
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