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於曽屋敷

於曽屋敷跡


登城日:(2012.03.31)
所在地: 甲州市塩山下於曽
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 史蹟 於曽屋敷
二重土塁で囲まれた於曽屋敷の想像図 土塁が美しい於曽屋敷  塩山市下於曽元旗板に所在する。四囲は土手を二重に巡らせ、門は南・西に開いている。現在、東西96メートル、南北約120メートル、山梨県内の中世豪族屋敷として唯一完備したものである。
 土塁基底幅は10.6メートル、高さ3メートルの豪壮な土塁を囲繞し、小字名「はたいた」とあるところから、土塁上に更に板塀を巡らせた防御施設があったと考えられる。
 「於曽」の起こりは平安中期の「和名抄」に記載がみえ、この地の開拓者は旧豪族の三枝一族であった。その後甲斐源氏加賀美遠光の四男・五男がこの地を支配し於曽氏を称した。
 この於曽屋敷は加賀美遠光の四男光経、更にその子遠経の屋敷と伝えられ、鎌倉初期の創立である。後に於曽氏数代の居館となり、信玄の時代には同族である板垣氏が於曽を継承し、於曽殿として活躍した。また、この屋敷の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、また金製法の作業場があったことから、当屋敷はそれら金山関係者の役宅とも考えられる。
 更に今日於曽屋敷内から採集される土師質土器から考察しても、当屋敷が鎌倉時代から室町時代にかけて経営されたと考えられ、文献資料と一致する。
 昭和60年、山梨県埋蔵文化財センターが外土塁内作場を調査したところ、門の位置が現在より東に12メートル寄り、その前に土橋・柵列があったことが確認された。
東側の開口部は後世の破壊か 子孫の方が住むお屋敷の門
 俗に土手屋敷と称され、文安年代西紀1441年から1449年の武田系図によると、加賀美遠光の子四郎経光が於曽氏を名乗り、即ち、ここに居館を構え於曽郷一帯を領有していた。室町時代既に繁栄を極めていたと推定できる。
 於曽屋敷は土盛り下土手屋敷で典型的な豪族の館跡である。
 面積は一町四面(約一万平方メートル)の広さを有し、昔は二重の土手をめぐらし内土手と外土手の間に川が流れ、有事の際は濠としたものと思われる。
 廣瀬家の口伝によると、於曽郷一帯を領有していた於曽氏も、うち続く戦乱により館を焼き、一時萩原山に潜んでいたが、徳川幕府の甲斐の国に対する懐柔政策に安心し、再び当屋敷に戻ったのであるが、旧姓於曽氏と名乗ることは遠慮し、母方の姓である廣瀬を名乗り、百姓となった。
 以後、屋敷内に武士たる祖先を祀り、屋敷神として今日に至った。


 於曽屋敷
 当屋敷の西北隅に、始祖於曽経光の墓がある。
 当屋敷の東北隅に、於曽氏を祀る社がある。
 当屋敷東南50メートルの所に於曽家の家臣板垣権兵衛の腹切石がある。
 尚、昭和四十九年三十一代当主廣瀬久忠により、屋敷の二分の一余が塩山市に寄贈され現在於曽公園として公開されている。

『於曽屋敷跡案内板』より

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資料
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私見
北側に残る二重の土塁 於曽公園  塩山駅の南西約300メートルの住宅地の中に、公園として於曽屋敷跡がありました。公園の南側に駐車場と案内板が設置されていますので大変訪問しやすい状態です。一見して土塁囲みの単郭方形居館といった様相の於曽屋敷ですが、案内板にあるイラストの復元図を見ると土塁は二重構造となっていたのですね。現在は規模が縮小されてしまっていますが、北側にだけわずかに二重の土塁を確認することができます。
 面白い、と言いますか慎重にならないといけないのが、城域の西側半分は民家となっているということです。立派な門がありますのでうっかり中に入りそうになりましたが、その先は宅地です。案内板の文章にあるように、地主さんが屋敷地の半分を塩山市に寄贈されたことで現在のような状態となったのですね。感謝してありがたく土塁を満喫させていただきましょう。
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