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金山城跡
登城日:(2003.05.04)
所在地: 太田市金山町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 復元石垣が見事すぎます  今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下克上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛になりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正十二(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。
 天正十八年(1590)小田原北条氏の滅亡とともに廃城となりました。江戸時代には金山「館林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。
 昭和九年(1934)には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や竹・下草で覆われ、城の面積は失われていましたが、調査の結果、大規模かつ複雑な虎口形態を持っていたことや、さらに、曲輪斜面の石垣、石段通路や土塁石垣など、随所に石を多用している山城であったことが明らかとなってきました。往時(中世末)における関東の山城としては、きわめてめずらしい「石垣の城」という様相が明らかとなりつつあります。
 太田市では、この貴重な文化遺産を護り、難攻不落の堅固な金山城の姿を可能な限り再現し、市民の「憩いの場」「歴史学習の場」として広く活用されることを願っております。
西城土塁跡 ◆本城
 金山城の中枢で、水ノ手郭を中心として約一万坪ある。実城とも言い城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。
 御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。主要部は六ヶ所腰郭は三ヶ所、武者造り、掘切りは壕内道を兼ねている。
 本城内において、実城、内方、小座旦那、御入、局等の名称が見られる。

◆西城
 金山城主主要部の一つで本城より西に尾根伝いに行った広い面積の城郭である。
 西城には、金山城主由良氏の一族である矢田掘領主、泉伊予守が居城していた。そのため、泉氏は西城殿とも呼ばれていた。
 西城からは、新田郡方面が見渡せるので、天正十二年の金山城攻防戦では、馬を引き出して米で水洗の様をし西南方面に塀を懸け囲らせて壁塗りをして、水の豊富にあるがごとくみせたところである。
 金山城開城後は西上州の高山遠江守が在城した。

『金山城跡案内板』より

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資料
1469 文明元年 岩松氏 金山城築城
1495 明応四年 明応の乱、佐野小太郎、金山城を攻める
1528 享禄元年 横瀬・
由良氏
享禄の変、横瀬泰繁・成繁が実権を握る
1565 永禄八年 この頃、横瀬は由良と改姓する
1573 天正元年 由良国繁、桐生城を攻略する
1574 天正二年 上杉謙信、金山を攻める
1580 天正八年 武田勝頼、新田・小泉・館 林を攻める
1583 天正十一 小泉城主富岡重朝、新田・足利・館林を攻める
1584 天正十二 小田原
北条氏
由良国繁・長尾顕長、小田原城に軟禁される
妙印尼・新六郎を 大将として金山に籠城する
小田原北条氏に降伏し、由良氏桐生城に退却する
1585 天正十三 金山城の北曲輪・根曲輪・西城などに、宇津木氏久ほかの在番が置 かれる
1587 天正十五 清水太郎左衛門正次、金山在城を命じられる
1590 天正十八 由良国繁・長尾顕長、小田原城籠城に加わる
前田利家ら金山城を接収。金山城廃城
由良国繁、常陸国牛久に知行を得る

私見 復元石垣が見事すぎます  関東では貴重な石垣の城、関東七名城の一つである金山城にやってきました。あとで気づいたのですが上のほうまで車であがることができるんですね・・。私は大手門の案内板があったところから登っていき、西城経由での登城です。汗かきながらの城せめなんて久々です(笑)。筋違い土塁などの遺構をみて、実城へ。
 やはり石垣はいいですねぇ。復元されたものでもこれだけの量の石垣が目の前に広がる光景はまさに圧巻です。ここは予想以上の人のにぎわいでした。有名な観光地なのかなぁ?
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