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明石道峯構付城跡
登城日:(2002.12.01)
所在地: 三木市福井
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
真新しい城址碑  この付城は、三木城の兵糧攻めに際して築かれた30余りの付城の一つで、天保十二年(1841)の絵図「三木城地図」に描かれていましたが、平成十一年に所在が確認されるまで、その存在は明らかではありませんでした。
 付城は、土塁で囲まれた主郭と東郭、そして尾根先端の西郭から構成しており、東郭の東には広い丘陵台地が続いています。
 主郭には、南西隅に櫓台を築き、主郭と東郭とを区切る土塁の中央部と、東郭を囲む土塁の南東隅に虎口を設け、それぞれ郭の出入り口としています。
 また、確認調査によって、主郭の東側土塁と東郭の東側土塁の外側で、土塁裾に沿って堀跡が検出されています。

◆三木合戦とは
 戦国時代の終り頃、天下統一を目指した織田信長は、中国地方の戦国大名毛利氏を攻めるため、羽柴秀吉を総大将とする軍勢を播磨に侵攻させました。東播磨を領有する三木城主別所長治は織田方に味方していましたが、毛利氏に寝返ったことから、天正六(1578)年六月織田方との間で三木合戦が起こりました。
 三木合戦は、別名「三木の干殺し」と呼ばれ、天正八年(1580)1月までの約1年8ヶ月に及んだ兵糧攻めで、長治は、共に籠城し餓えに苦しむ人々の命を救うため、自害し開城しました。
城の縄張り図 ◆三木城攻め付城群
 羽柴秀吉は、兵糧攻めによる三木城攻略のため、三木方の兵糧搬入と援軍を阻止する目的で、三木城を包囲する城を築きました。城攻めの際に築かれたこのような城を、付城または陣城とよんでいます。
 軍記や地誌などの文献によれば、三木城攻めには平井山の本陣をはじめ、30余りの付城が築かれたとされています。これほど多くの付城を築かれた合戦はあまり例がなく、また今もその半数以上が現存しており、戦国時代における城攻めの実態を解明する貴重な史料となっています。

◆周囲の付城
 当付城の西向い約600m先にはシクノ谷峯構付城が、その北西約1km先には高木大塚付城が、さらにその北西約700m先には法界寺山ノ上付城が現存し、これらは多重土塁の一部とともにホースランドパーク内に所在しています。
 また、東約800m先には小林八幡神社付城が、北約900m先には八幡谷ノ上明石道付城と羽場山上付城が、北東の三木山森林公園内には三谷(箕谷)ノ上付城が現存しています。
 三木城の南に築かれたこれらの付城群は、約4kmに及ぶ多重土塁とともに三木城を包囲しており、毛利氏による明石・瀬戸内方面からの兵糧搬入や援軍の侵攻を阻止したものと考えられています。

『明石道峯構付城跡案内板』より

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資料
 

私見
整備が終わった城跡  国道175号線福井バイパスを曲がると北側に新しく道路を作ったりした工事をしていたところの山の上に柵がたてられていることに気づくと思います。以前「くさいなぁ」と思ってたのですがやはりそこが明石道峯構付城跡でした。ちょうどこの日は土曜日で工事が中断されていることを幸いに車を道路脇に止め、踏み込んでみました。
 よく見たらここはグランドゴルフ場が出来るみたいですね。少し中に入り込むと真新しい城址碑がつくられています。最近こういうのを見るとほんと安心してしまいます(笑)。そこから高さ10mくらいでしょうか、小高い丘の上にあがると西郭から順に主郭、西郭と広がっています。特に一番よく遺構が残っているのは主郭を囲むようにしている土塁と、虎口ですね。今までこんな立派な城跡が残っていたなんて全然知りませんでした。周りを見渡せるロケーションにある明石道峯構付城からは付近の付城群との位置関係がよくわかります。
 三木市では二十以上もの城砦群を確認しているとのことらしいです。まだまだ楽しめそうで嬉しいですねぇ。こんどこの三木城包囲網を何かの形で再現させてみようと思います。
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