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平井山本陣跡
登城日:(2001.04.07)
所在地: 三木市平井山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
土塁が残る本陣跡  今を去る四百有余年前、時は天正五年(1577)主君織田信長から中国征伐を命ぜられた羽柴秀吉が、播州一円の攻略に当っていたが翌年六月、播州三木の城主別所長治の討伐に向い、この平井山に本陣を構え、数千の城主が立てこもる三木城を十重二十重に包囲し、約三年の歳月を要して遂に陥落した。
 城主別所長治一族は、城兵の助命を請うて自刃し、東播の地は完全に秀吉の翼下となった。時は、天正八年正月十七日である。秀吉もこの対陣中に軍師竹中半兵衛重治を失い、大きな痛手を受けたがこれが後年秀吉が自慢する三木の兵糧攻めであり、全精力を傾けて策略を練った本陣跡がここである。

◆竹中半兵衛の墓

 一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斎藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地を転戦し殊勲を立てました。しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配しこの地に帰ってきました。けれども、病魔には勝てず天正七年六月十三日、三十六歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。

『平井山本陣跡案内板』他より

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資料
 

私見
竹中半兵衛の墓  ちょっと時間があったので実家に帰ったついでに近場を攻めてみました。平井山に陣跡があったのは知っていましたが思った以上に遺構があるものですね。本陣の周りを数十センチほどの土塁がまわりをぐるりと固めてあり、特筆すべきは本陣の後ろ側にある、90度の断崖す。おそらく人の手によりつくられたものでしょうが、絶対にうしろ側からは攻められることのないようとする工夫なのでしょう。あまりに見事につくってあったのでふらふらぁとひきこまれそうでした。
 また、この本陣より南方約1キロほどのところに竹中半兵衛の墓があります。回り一面を葡萄園となった奥に、1mほどの高さの白塀に囲まれて3〜4m四方ほどの敷地に立派な墓がまつられています。
 時期を逸した桜の木が1本だけ、この墓内に見事な花を咲かせているのは半兵衛の魅力でしょうか、ねぇ。
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