HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

稲爪神社浜砲台跡


登城日:(2006.01.22)
所在地: 明石市大蔵本町、大蔵中町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
稲爪神社から見えていた海岸・・?  推古天皇の御代 不死身の総大将鉄人率いる三韓の兵八千余九州へ来攻し勢ひに乗じ東進する。討伐の勅命を受けたる伊予の国の武人小千益躬三島大明神に祈願をなす。播州明石に至り突如稲妻の中に大明神現れ、鉄人唯一の弱点足裏を射よとの御瑞験あり。大雷鳴に好機を授かり鉄人を「鬼指しの矢」にて足裏より脳天まで射抜くと言ふ心願叶ひて、この地に稲爪神社創建す「大蔵谷の牛乗り」縁起今に伝ふ

 嘉永六年(1853)のペリーが浦賀に来航して以来、日本は海防の意識が一気に高まった。明石藩も周囲の諸藩の動き同様に海岸線に砲台(台場)を築いていった。詳細の時期や正確な場所は不明だが、少なくとも文久二年(1862)には藩内の12箇所に砲台を構えていたようだ。そのうちの一つがこの稲爪神社浜砲台である。

『稲爪神社案内板』など

【戻る】

資料
 

私見
周辺は宅地が密集しています。 嘉永六年(1853)の米国 八幡神社浜砲台跡と比定した場所から西へ約300メートルほど歩いた稲爪神社から南へと広がる浜辺に砲台は築かれました。今はすっかり民家が所狭しと立ち並ぶ場所ではありますが、稲爪神社の門からそとを眺めてみると少しずつ下がっていっているのがわかります。
 この稲爪神社浜砲台もまた中島流の砲術を採り、砲種は五百貫目、三百貫目が設置されようとしたようで、かなり立派なものであったことが想像できます。この砲台にも横一文字に土塁が設けられていたそうですが、狭く立ち並んだ民家の中にはもはやその面影はありません。 (「講座明石城史」神戸新聞総合出版センター刊参照)
【戻る】