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山崎城跡
登城日:(2000.05.06)
所在地: 宍粟郡山崎町宍澤
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復元された枡形 現存する紙屋門 この辺一帯が山崎城であり、別名を宍粟城と言っていました。今から三百七十余年(元和元年六月)徳川家康の孫にあたる松平石見守輝澄が宍粟郡三万八千石ももらって山崎の地に城を築きました。 寛永八年、赤穂城主であった弟の政綱の死去により佐用郡と赤穂郡の内から三万石を加えられて六万八千石となりました。
寛永十五年、御家騒動により、同十七年、領地没収となり、代って岸和田城より松平周防守康映が城主となり宍粟郡、佐用郡の内五万石を賜りました。この城は、宍粟、佐用を相和した城であることから、城の名を「宍佐和城」と名づけました。
周防守は城地を整え城下の繁栄をはかりましたが、在城十二年余りで慶安二年、島根県浜田に移りました。
その後には、岡山県から池田光政の弟、松平備後守が城主となり宍粟郡の三万石を賜りました。
寛文十一年、恒元が死去し、その子豊前守政周が後を継ぎましたが、延宝五年政周がなくなり養子の数馬が後を継ぎました。
延宝六年幼君数馬も江戸で急逝、家を継ぐ子がなく、御家は断絶、領地は一旦幕府の領地となり、延宝七年、本多肥後守忠英が一万石の城主となりました。前藩主、松平数馬の城地に館を造り、それ以来ここを「宍粟城陣屋」と呼びました。
その後、藩主九代が継続し明治維新となり、明治五年、学制頒布により、この地の山崎藩邸がそのまま学校になり、現在の山崎小学校に至りました。
この左の門は、山崎藩陣屋門(紙屋門)で町指定文化財となっています。左右の土塀と石垣も当時のものが遺っております。
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資料
城主一覧
在城年間城 主石 高
元和元年(1616)〜寛永十七年(1640) 松平石見守輝澄 六万八千石
寛永十七年(1640)〜慶安二年(1649) 松平周防守康映 五万石
慶安二年(1649)〜寛文十一年(1671) 松平備後守恒元 三万石
寛文十一年(1671)〜延宝六年(1678) 松平豊前守政周
数馬
三万石
延宝六年(1678)〜明治四年(1871) 本多肥後守忠英
以後藩主九代
一万石

私見
陣屋跡です。 中国自動車道、山崎インターを北へすぐのところに山崎城跡はあります。ところでここってどう呼んだらいいんでしょうね。山崎城なんだか宍粟城なんだか、はたまた宍佐和城なんだか・・。よく城って別名ってのがありますよね、ほら姫路城だったら白鷺城だったり、岡山城だったら烏城だったり。でもここはそういう別名とかじゃないんですね。その時時で呼び名が変わっていったんですね。なかなか面白い。 狭くて小さな山崎の町ですが一応城下町の雰囲気はありますね。しかも町の北部にある最上山公園には篠の丸城跡もありますしね。 でも遺構といえば陣屋門跡である紙屋門だけってんだからちょっと寂しいですが。でもいろいろ町中を散策してますと、本多公園北側に小さく「堀跡」という碑がたっていたりと町全体を城地が広がっていたのでしょうね。
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