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米田城跡
登城日:(2003.11.23)
所在地: 佐用郡南光町米田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本郭跡下より  米田城が築城された時期は明らかでない。一説によると山田伊豆守則景の築城といわれているが、はっきりしているのはいつのころからか宇野氏に引き継がれていったということである。
 嘉吉元年(1441)にはの山名教清の攻撃により落城し、その後赤松氏の再興により赤松のものとなったが、文明六年(1485)再び山名政豊に攻められ落城。その後得平源三が拠ったが、赤松宗家置塩城主赤松義村と争い、落城した。
 さらに天文七年(1538)尼子晴久に攻められ落城、城主祐清はこの時尼子氏に服従した。やがて永禄十年(1567)の尼子氏の上月城が落城したのを機に、この地は放棄され、城主祐清は篠の丸城へ逃れて、廃城となった。

『日本の中世城館調査報告書集成15』東洋書林刊参照

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資料
 

私見
見事な削平地が段を形成しています。  米田城はJR姫新線「播磨徳久」駅の南側、千種川に張り出すような台地上にありました。標高150メートルの独立丘陵を形成し、北側は千種川と断崖が作られておりますが、その他の方面からは比較的簡単に攻め込めそうな地形です。現在は頂上部東側には城山会館が建設されていますので東側の遺構は破壊されてしまっています。ですが、上まで車でいけるというメリットもあります。
 驚いたことは偶然なのかすっかり下草が刈り込まれてあり、綺麗に西側、南側の遺構が確認できるということです。何段にもなった削平地が5段ほどあり特に下からニ段目、三の郭跡は特に広大な面積を誇っています。また、その段差の郭跡を縦断する竪堀が1本ありますが、上までは届いていません。
 歴史を見ていますとすさまじい戦いがこの地で繰り広げられた様子ですが、石碑1本さえないこの無名な城跡は今でも山城である片鱗を残してくれる貴重な財産ですね。
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