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茅ヶ崎城

茅ヶ崎城跡


登城日:(2003.11.24→2008.06.29)
所在地: 横浜市都筑区茅ケ崎東2丁目、茅ヶ崎城址公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
茅ヶ崎城址公園案内板より 茅ヶ崎城址公園北側より  茅ヶ崎城址は、「空堀」「郭」「土塁」などが良好な状態で残る、貴重な中世城郭遺跡です。早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されています。
 茅ヶ崎城は14世紀末〜15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなります。16世紀中ごろには二重土塁とその間に空堀が設けられました(この築城方法は、後北条氏独特のものとされる)。築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されます。
 16世紀末までには、城としての役割は終わります。江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、「城山(じょうやま)」という地名とともに、今日まで保存されてきたのです。茅ヶ崎城址は、貴重な歴史資産なのです。

◆発掘調査のあらまし
○平成2年度〜平成10年度
 保存・活用をはかる基礎資料を得るため、城内全域を対象とする7次にわたる試掘調査を実施。
○平成15年度・平成17年度
 公園の整備事業に伴い、北郭の一郭と中郭南東側土塁の一部の発掘を実施。
 これらの調査により、堀や土塁・土橋の様子が明らかにされ、中郭東部の建物跡・北郭の井戸などが発見されました。この他、弥生時代後期・古墳時代後期・平安時代の竪穴住居あとなど、より古い時代の遺構も見つかりました。
 出土品には、それらの時代の土器のかけらや、縄文土器のかけらもみられます。茅ヶ崎城に関係する出土品には、かわらけ・陶磁器をはじめ、石臼・硯などのかけらや鉄釘・銭などがあります。

◆城の立地と歴史的環境
茅ヶ崎城址公園入口左脇にある土塁  茅ヶ崎城は、早渕川中流右岸の三角山(現:センター南駅付近の旧地形)から東に連なる丘陵の先端部に築かれた丘城です。標高は28〜35メートルあり、最高所は中郭南西隅の土塁上で、およそ40メートルあります。
 当地域は、武蔵国南部にあたり、関東の政治の中心地である鎌倉に隣接しています。茅ヶ崎城の近くには、関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っていたと考えられており、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)が通じています。また、早渕川沿いの道は神奈川湊(横浜氏神奈川区)と武蔵国府(東京都府中市)を結ぶルートのひとつでした。茅ヶ崎城は、このような交通の要衝の地に自然の地形を巧みに利用して築かれていたのです。

◆茅ヶ崎城をとりまく歴史的背景
 1338年、足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、鎌倉には関東の統治機関として鎌倉府が置かれ、「鎌倉公方」足利氏と、その補佐役の「関東管領」上杉氏が力を持ちます。
 15世紀半ばになると、鎌倉公方と上杉氏の対立、また、上杉氏一族の内紛が激しくなり、関東を中心に大規模な戦乱が起こります。1476年の上杉氏家臣長尾景春の乱では、小机城が太田道灌に攻め落とされます。
 15世紀終わり頃、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は関東支配を進め、1495年の小田原城の奪取をはじめとして、関東各地に支城を中心とした領国をつくっていきました、。このころ茅ヶ崎城は、周辺の城とともに小机城を中心とする後北条氏の勢力下に組み込まれていたと考えられています。茅ヶ崎城の最高所に高さ8メートルほどの櫓を設置すれば、およそ3.5キロメートル離れた小机城を望むことができたようです。
 1590年には、豊臣秀吉の軍勢がこの地に押し寄せます。この時、茅ヶ崎城を含む11ヶ村に対して軍勢による略奪や放火を禁止した豊臣秀吉の禁制が発布されています。その後、徳川家康による江戸幕府の開府を経て、1615年に一国一城令が出されると、多くの城は廃城となりました。
茅ヶ崎城、北郭 ◆茅ヶ崎城の移り変わり
 茅ヶ崎城は早渕川に張り出す自然の丘のくびれ部を堀切して築かれています。規模は、東西330メートル、南北200メートル、総面積はおよそ55000平方メートルあります。複数の郭が連なる形式で、郭を取り巻く空堀、郭の外縁部に築かれる土塁などで構成されています。天守閣のような大きな建物や石垣はありませんでした。
 発掘調査の結果、築城年代は14世紀末〜15世紀前半頃と考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められました。
 築城当初は、東西2つの郭のみでしたが、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の堀り直しが行われ、郭が西郭・中郭・東郭・北郭の4つになったと考えられています。中郭(当初の西側郭)の南東部から、倉庫と考えられる建物などが見つかっています。この時期に相模国と武蔵国を支配していたのは関東管領上杉氏であり、茅ヶ崎城の改築にも影響を与えていたと推定されています。
 16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされています。中郭の東寄りには新たに「中堀」も掘られています。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成のままであった可能性もあります。この頃の城主については、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説があります。
 茅ヶ崎城の南側の谷に望む山すそから、かつては14、15世紀のものと考えられる常滑産の蔵骨器や板碑が発見されています。墓地に伴うこれらの出土品は、「根小屋」とよばれる平時の生活拠点エリアが形成されていた可能性があることを物語っています。
 中世城郭は、軍事拠点としてだけではなく、戦時における地域の避難施設でもありました。
 城内には、籠城の備えとしての食べ物を貯え、井戸を掘ることが行われていました。また食料になるように植物も植えられ、管理されていたと考えられます。
北郭から中郭の土塁を見る ◆北郭土橋
 北堀の中央西部を掘り残したもので、上幅は2.9メートル、下幅は4.5メートル以上あります。横断面は幅広の大径で東壁は60度、西壁は70度となっていました。
 土橋に続いて、幅2メートル弱の土を固めた道路が郭内にのびています。この道が始まる両側には対になる柱穴があり、木戸の痕跡と考えられます。
◆土橋
 土橋は「虎口」とよばれる、城の出入口に設けられる施設です。一般的には、郭周辺の空堀の一部を掘り残してつくられます。
 茅ヶ崎城址では、北郭土橋と西郭土橋のように空堀を掘り残してつくられたものと、中郭土橋のように東郭と結ぶために空堀の一部を埋めてつくられたものがあります。北郭土橋と西郭土橋は、早渕川沿いの道に向かって設けられています。
◆井戸
 戦となれば長期に立て籠もることもあった城にとって、建築する土地を決める際に水が湧く場所かどうかも重要な要素でした。
 井戸は重要な設備として城内に複数つくられ、また、警護も厳重でした。
 茅ヶ崎城址では北郭で上端の直径約4メートル、深さ五メートルほどの井戸が見つかっています。この井戸の湧水量は極めて多く、使用時にはかなりの量の水を確保できたと考えられます。遺構確認面から井戸底まですべてに水がたまっていたと仮定すると二十リットルポリタンク約千本分にも達します。
 井戸の周囲からは使用する際に、横板や梁を渡して水を汲む簡素な施設が建設されたと思われる遺構がみつかっています。
◆土塁
 堀を掘った土を盛って築き上げた堤のことで、敵を阻止し反撃する際の足がかりとする役割がありました。したがって、規模の大きな土塁ほど防御効果が大きいといえます。
 堀と土塁の築造は一体となって行われ、表土を削り、土盛りをする部分は山の斜面を平らに削って帯状のテラスを作りました。ここに黒土を置いて叩きしめ、盛り土が崩れないように基礎を作りました。この照らすからやや下った場所を等高線沿いに堀切、排土を斜面下方に水平に積んでいき土塁としました。本城址の主な土塁は堀底から7メートルから8メートル、郭内から高さ2.5メートル以上、基底部の幅は7メートルから8メートルあったと推定されます。
 土塁の側面には「武者走り」とか「犬走り」とよばれる施設がつくられました。これは、連絡用の通路としての役割とともに、土塁を越えようとする敵を上方から攻撃するための足場としての役割もありました。

◆郭
茅ヶ崎城中郭で見つかった建物礎石  堀や土塁、石垣などで囲まれた区画を郭といい、「曲輪」とも表記されます。江戸時代には「丸」とも呼ばれました。城は、郭をいくつも作りだすことで成り立っています。城の中心となる郭は、「主郭」または「本曲輪」と呼ばれ、江戸時代には「本丸」と呼ばれました。
 また、戦国時代の丘城は、自然の地形を巧みに利用して築かれています。主要な郭の外側や丘陵の中腹にもさまざまな区画が見られます。主要な郭をめぐる堀の外側を取り囲むように作られる「帯郭」、主要な郭の外側の一部に作られる「腰郭」などがその代表といえます。

◆茅ヶ崎城址の郭
 茅ヶ崎城の場合、石垣は見られず、堀と土塁によって区画されています。「東郭」、「中郭」、「西郭」、「北郭」の4つが主要な郭です。「東郭」が主郭に相当すると考えられます。東西五十メートル、南北二十メートルの不整長方形をしており、頂部の平坦面が「中郭」より三メートルほど高い位置にあります。建物などの痕跡はまだ確認されていませんが、この郭は、戦闘時における最後の拠点となる場所でもあったと推定されます。
 茅ヶ崎城では、「東郭」北東部に接する一段低い位置に「腰郭」が見られます。その北西には東北郭がありますが、この郭の詳細は明らかでありません。また、それぞれの役割は不明ですが、丘陵の中腹には「平場」と呼ばれるテラス状の平坦部が複数見られます。

◆遺構
 遺構とは、土地(地中)に残された基壇や柱穴、墓などのことで、昔の構造物の様式や配置などを知る手がかりとなるものです。
◆倉庫の発見
中郭と東郭の間にある堀切と土橋  中郭の住居域と見られた部分の内容を明らかにするため、郭内南東部の発掘調査を行いました。その結果、全面に多数の柱穴や土坑が分布し、東西・南北に軸を持つ掘立柱建物が並び、南土塁との間を塀で区切っていることが明らかになりました。
 建物1〜3内の土坑は陶器の埋納坑と推定され、これらの建物は倉庫と考えられます。また、建物5から炭化材とともに焼けた壁土のかけらが多数検出され、焼失した土倉と判明しました。
 このことから、中郭南東部は倉庫地区であることが明確となりました。また、遺構はその重なりや位置関係から4〜5期の変遷があることもわかりました。
 住居施設としての建物あとは、これまでのところ確認されていません。

◆根小屋
 根小屋とは城下町というものがまだない時代の、城主や重臣達の居住地区のことです。この時代の城主は普段は本丸や主郭に居住せず、郭の麓につくられた根小屋で生活し、いざ戦となったときにのみ、城に籠りました。
 茅ヶ崎城址では南・東の崖面裾に幅十〜二十メートル、東西六百メートルに及ぶ平場が展開しており、十四世紀から十五世紀に蔵骨器や板碑などから成る墓地を伴う屋敷があったと考えられています。

◆東郭
 東郭は城の中でも最も高い位置にあり、「中原街道」や「矢倉沢街道」の街道筋を見渡せるほど見晴らしがよいため物見台の役割を持っていました。
 また、城郭の中でも最高所にあるため、戦の際には最後に逃げ込んで籠城する場所と推定されます。
ここだけ整備が遅れている腰郭 ◆腰郭
 腰郭は東西60メートルの帯状をなし、東北部は約二百平方メートルの平場となっています。東側は急な崖で、北側には幅十メートルほどの北堀があり、東北郭との間を遮断しています。この北堀の内側には土塁が伸びています。
 この郭は、武者溜としての役割があったと推定されます。

◆空堀
 堀は水の有無によって水堀と空堀に分けられます。水堀は主に低地の城につくられ、堆積物で埋まりやすい難点があります。水がしみ通ってしまうローム層を基盤とする横浜の城では空堀が多くつくられました。空堀は底が土で、その形状は横断面が逆台形の「箱堀」が多く見られました。
 茅ヶ崎城址の堀は、両側の壁が七十度と垂直に近く、また、ローム層が堅いために取り付きにくく、防御面で大変すぐれていました。

◆虎口
 城の出入り口は、「虎口(小口)」といいます。いざというときにすぐに封鎖できるように、また敵が侵入しにくいように、できるだけ幅を狭くしています。城の防御と攻撃の両面において重要な場所であり、様々な工夫が加えられました。「横矢」という侵入しようとする敵に横から矢を射掛けるための構造や屈曲した堀などの「折邪(おりひずみ)」とよばれる構造が見受けられます。
 茅ヶ崎城址では北側に推定する説がありますが、まだ発掘調査による確認がされていません。東郭南側にも虎口の存在が推定されている場所があります。

『茅ヶ崎城跡案内板より』

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資料
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私見
茅ヶ崎城内に残る空堀跡  長い工事、整備事業が完了し、晴れて茅ヶ崎城址公園としてオープンした2008年6月28日。その翌日の朝5時(^^;に行ってきました。思い起こせばこの茅ヶ崎城は5〜6年前から今か今かと毎年訪問しては、泣く泣く立ち去るということを繰り返していたお城でした。私にとっては念願の訪城です。
 勝手知った地下鉄「センター南」駅を降り、城山へと歩いていきます。遠目にも頂上部分が露出しているのがわかり、城跡としての姿が復元されたんだなと期待が膨らんでいきます。駅からちょうど反対側になる方向が公園の碑もありますのでそこから公園、いや城域に足を踏み込みました。そのまえに左手に高い土塁がむき出しになっているのが衝撃的です。思わず上に登ってしまいますが、これだけでも十分満足できる遺構ですね。
 茅ヶ崎城はあわせて6つの郭から構成されており(案内板では4つと腰郭)、それぞれに土塁や堀切、土橋など中世山城の遺構が盛りだくさんで、山城遺構を勉強するにはお手軽で最適な教科書だなと思います。またそれを後押しするのが各ポイントに設置された多くの案内板による、丁寧な解説がなされていることです。上記で転記しておりますが、茅ヶ崎城に関することだけではなく、それぞれの城用語の解説もつけられており、非常に好感が持てます。とりあえずお城に興味がある方を連れてくるのはいいかもしれませんね。しかもそんなお城がこんな都心部の中に存在していることが奇跡的です。詳しいレポートは現地案内板の解説文の転載に任せますが、ほんと何年も待った甲斐がありました。 
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