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井田城

妙顕寺城跡


登城日:(2007.08.08)
所在地: 京都府中京区古城町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
妙顕寺城跡を示す城址碑  この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。天正十一(1583)年九月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、天正十四年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。

◆閑院址
ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて藤原氏の邸があったところである。当初は藤原冬嗣の邸であったが、十一世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。
 また、高倉天皇の時代(1161〜1181)大代理が甚しく荒廃したため閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。
 以来、後深草天皇に至る九代九十余年間里内裏となっていたが、正元元年(1259)五月に火災で焼失した。
 閑院の南殿にて月前松を詠める

いまはまた世々をかさぬる庭の松
 ふりてそみゆる秋の夜の霜
            順徳天皇

『妙顕寺城跡案内板』より

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資料
 

私見
ひっそりと路地裏に残る城跡地  二条城の東大手門を東へ約200メートルほど、全日空ホテルの南を東へ歩いていくと西福寺の前に妙顕寺城跡を示す石碑と案内板が設置されていました。古くは鎌倉初期に閑院が建ち、里内裏として利用され、下って秀吉が城を築城していたとは今までなんども近くを通っていたのに知りませんでした。
 折りしもこの日は前日に本能寺の瓦が出たというニュースにわくわくさせられたものでしたが、その雰囲気に浸るべく本能寺跡周辺から北上してきて見つけたものでした。マンションの建設等で発掘調査の機会があるたびにこの辺りはなにかしら出てくるんでしょうね。ただその機会が来るのをじっと待つしかないなんてなんとも悔しいと思ってしまうのは私だけでしょうか。
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