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筒井故城跡
登城日:(1999.06.28)
所在地: 上野市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
上野城とは少し違った石積みですね。  伊賀上野城の天守より約300mほど東にいったところの本丸内に古めかしい石垣と郭跡があります。
「誠に以って兵術の名人、軍法秘段を伝授し、三略の要文も旨とす」と評せられた戦国の名将筒井定次は大和国衆を連れて伊賀に入国するやただちに築城の秘術を尽くしてこの地に城郭を築き、三層の天守を構え、殿門を整えました。  堅固な石垣築成は野づら積みから打込みはぎの手法に移行する石積み技術を顕著に示すもので、今田播磨一派の穴太衆が築成しました。
 羽柴伊賀侍従と呼ばれ、秀吉に仕えた定次は天正十三年(1585)閏八月、伊賀上野二十万石を与えられてこの地に入部しました。
 関ヶ原の合戦の際には家康に忠誠を誓い、東軍に従軍して会津征伐に東下していましたが、その隙に西軍にこの伊賀上野城は奪われてしまいました。しかし、その後岐阜城攻めにおいて家康に戦功を認められた定次は、戦後旧領を安堵されました。
 こうして戦によって出世していく、いわゆる古いタイプの武将であった定次は、大坂で遊びに耽り、それがもとで家内の派閥争いから慶長十三年(1608)六月、改易となり、元和元年(1615)三月には大坂方に内通したことが発覚し、切腹を命じられ、その一生を終えました。

参考文献:(財)伊賀文化産業協会編纂「伊賀上野城」より
      新人物往来社刊「天下取り戦国武将データファイル」

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資料
 

私見
その上はだだっ広い広場になってます。  ひっそりとこの筒井故城のまわりだけが異なった空間のようにたたずんでいる雰囲気を感じました。石垣や石段はさすが穴太衆の手によるもので、見事です。しかし、このことに関しては一切案内板がないのは解せません。なぜでしょうね。
 私は筒井定次についての印象はただの放蕩癖の抜けない二代目という印象しかもっていませんでしたが、数々の戦功を残し、秀吉と家康それぞれに認めさせた、その武将としての戦働きだけを見ると、私の認識が間違っていたことを認めざるをえないようです。関ヶ原の合戦や、大坂の陣ですこしづつ徳川体制が固まりつつあるなかで昔ながらの槍一本で出世していく無骨な男達が歴史から姿を消していきました。定次もまたその例に漏れること無く消えるべくして消えていったのでしょうか。そしてその後の伊賀上野城を任された藤堂高虎はそんな戦国武将達にはない、特異とまで言えるほどの政治的なバランス感覚を備えた武将でした。器用に秀吉、家康などの権力者にへつらい、生き残っていく数少ない男でした。定次とのあまりに正反対な城主の交替は、歴史の流れをまざまざと感じさせてくれます。
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