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多賀城跡
登城日:(2002.05.19)
所在地: 多賀城市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 発掘調査中の南門跡 ◆多賀城の外郭南門
 ここには多賀城の正門の跡がありました。南を区画する築地塀のほぼ中央に位置し、多賀城の中心施設である政庁の南方約350mのところにあります。
 多賀城の外郭門は発掘調査の結果、この他に東・西門が判明しており、いずれも瓦葺きの門で、陸奥国府としての重要性を示しています。
 中でも南門は多賀城の正面を飾るため、屋根が二重になっている立派な門であったと考えられています。
◆多賀城の南門と築地塀
 多賀城政庁の正面約350メートルに位置する南門と築地塀の跡がここで発見されました。手前の小石の集まりは、礎石(柱の土台石)を安定させるための根固め石で、ここに南門の柱がたっていたことがわかります。
 中央に走る土手状の高まりは南築地塀の跡です。築地塀はつくるとき、仮に板で枠を設け、土を丁寧につき固めて高く築き、屋根を葺いた土塀のことです。その跡が写真のように残っていました。
 現在は、遺構保存のため、もとの状態に埋戻しています。

政庁前、かすかに見えるガイドのおじさん(笑)  多賀城碑は、砂岩を加工して碑面をつくり文字を彫り込んだもので、高さ約ニメートル、幅約一メートル、厚さ約七〇センチメートルで、碑面は西を向いて立てられています。
 碑面には、上部に大きく「西」の字があり、その下の長方形の枠線の中に十一行百四十文字が刻まれています。碑文の内容は大きく分けて二つの部分から成ります。前半は、多賀城の位置を京や国の境からの距離で示しています。後半は、多賀城が神亀元年(724)に大野朝臣隼人によって設置されたこと、天平宝六年(762)藤原恵美朝臣朝かつによって修造されたことを記され、最後に碑が建てられた年月日が刻まれています。
 碑文の内容から藤原恵美朝臣朝かつの業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑とみることができます。
 また、碑は、歌枕として有名な「壷碑」とも呼ばれており、元禄二年(1689)には松尾芭蕉もこの碑を訪れ、深く感動し、涙を流した様子を「おくのほそ道」の中に書き残しています。
9  多賀城碑は、群馬県吉井町の多胡碑、栃木県湯津上村の那須国造碑とともに日本三古碑のひとつです。
◆南門−政庁間大路跡
 多賀城の正面入口である外郭南門から中枢部である政庁へ南北にまっすぐに通ずる大路で、多賀城のなかで最も重要な道路である。
 発掘調査の結果、政庁の第T、U期(8世紀)は道路幅が約12mで第V、W期(9〜10世紀中頃)には約23mに拡幅されていることや、政庁南方の斜面には自然石を並べた階段がもうけられていることがわかった。
 現在は政庁第U期当時の大路について推定復原している。

『多賀城跡案内板』より

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資料  

私見 多賀城政庁跡。  仙台市より北方に位置する多賀城市。城名を冠する市であることからわかるように市内全域がかつての政庁であった多賀城跡となっています。普段私が訪れる城跡とは時代が違うのでよくわからないのですが、見事に発掘調査、復原が進められていて、当時の雰囲気はよくわかるようになっています。
 特に政庁前の大きな石の階段です。安土城のものとは比べものにならないほどの幅をもつそれは、整然としていますが重厚な雰囲気を醸し出しています。
 その上に黄色いジャンパーを着たおじさんがにこやかな笑顔で手招きをしていました。地元のボランティアの方です。「話しようか?」とそのかたはマニュアル化されているのかな?と思わせてくれる一定のリズムでガイドをはじめだしました。すっかりおじさんのペースで案内されるままになってましたが、やはり流石は地元の方ですね。「ここは元々の石を使っているんだ。あ、そっちは違う。」と完全に見た目にはわからない細かい違いを教えてくださいます。
 そういえば白石城でもいらっしゃいましたが、宮城県は史跡への取り組みが積極的でいいですね。おじさんも生き生きとしてますし。言うことなしですね(笑)
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