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座喜味城跡


登城日:(2005.07.16)
所在地: 中頭郡読谷村字座喜味
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
内側から見たアーチ門。両サイドが外側に張り出してます。 大手から見たニの郭アーチ門  座喜味城は、15世紀の初頭築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。護佐丸は当初、座喜味の北東約4キロメートルにある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中山尚巴志の北山城攻略に参戦、北山攻略後は戦後処理のため一時北山城にとどまったといわれ、その間に座喜味の地へ築城を開始したという。城跡は座喜味部落北側の小高い丘、標高120メートル余の名護層からなる台地を石灰岩の切石積で取り囲んで築かれており、城は2つの郭からなる連郭式の形態になっている。城郭内の面積は約4,012.51平方メートルで、沖縄のグスクとしては中規模である。
 この城には一の郭と二の郭にアーチの門がそれぞれ一つずつ造られているが、アーチ石のかみ合う部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめられており、他のグスク等には類例がみられない。このことから座喜味城のアーチ石門が現存するアーチの沖縄で最古のものと見られている。
一の郭のアーチ門。かなり高くなっています。 一の郭内にある拝所。  座喜味城跡は1972年の本土復帰に伴って国の史跡に指定され翌年の10月から沖縄県ではじめて史跡整備事業が文化庁と県の補助を受けて開始された。整備事業に伴う遺構発掘調査がなされ成果を上げた、出土遺物は、グスク系土器と須恵器が少量、中国製陶磁器や古銭などがあり、これらの出土品中最も多いのは中国製の青磁と陶器で、これらの中国陶磁からみると、15世紀から16世紀までのものがみられることから、座喜味城は護佐丸が1440年に中城城に移った後も使用されていたと考えられる。
 遺構については一の郭の北側に間口16.58メートル奥行14.94メートルの石組が発掘され、この中に建物が建っていたと思われる。しかし瓦等は出土しない事から屋根は板葺か茅葺の建物であったと推定され、また一の郭内の南側では城壁を作る以前の柱穴群も発見され、出土遺物からそれほどの時代差はないものの、一の郭内において2つの時期の遺構が確認された。
 城跡は第二次大戦において、一の郭内に日本軍の高射砲陣地が築かれ、戦後も米軍のレーダー基地が建設されたが、整備の始まった翌年返還された。城壁は1982年に修復を完了した。城壁の上に立つと首里・那覇をはじめ本島西側本部半島や東支那海に浮かぶ慶良間諸島・久米島・伊江島・伊平屋諸島が眺望出来る要害の地にある。

『座喜味城跡案内板』より

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資料
 

私見
一の郭奥は断崖です。 一の郭にある建物礎石  座喜味城へは、国道58号線を喜名小学校脇を折れて高台へとあがっていくことになるのですが、あまり迷う人はいないでしょう。上には駐車場もありますが、大手にあたる入り口とは反対の方角になっています。
 さて、この座喜味城美しすぎる城壁の曲線美に思わずため息がでます。国頭マージとよばれる赤土上にある城としても注目されているようですが、その上に積まれた城壁は石灰岩の切石を用いて布積みとあい方積みの両方によって構成されています。また一部に野面積みもありますがグスク完成を急いだためであろうといわれているみたいですね。
 城域は一の郭と二の郭からなり、それぞれアーチ門がついています。ニの郭のアーチ門の両脇には全面に張り出した格好で城壁が組まれていますので、大手から攻め寄せる敵勢を攻撃しやすくなっています。門をくぐると大きな空間が広がっています。左手側に通路があるのですが、うっかり進んでいくと袋小路となっているのが面白いです。さらにアーチ門をくぐると一の郭です。さらに広い空間があり、建物の礎石が北側に見られます。また拝所もありました。
 一の郭には城壁上にあがることができますので城壁のうねりを一望することができるようになります。北側は断崖上にあるのが分かり足がすくみます(^-^;。城壁の上からの眺望を一人で堪能できる時間は最高に贅沢なものだなぁと感じたひと時でした。
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