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月山富田城跡
登城日:(1999.03.21→2006.10.08)
所在地: 安来市広瀬町富田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
登城道すぐの石垣に圧倒されます。 月山富田城の中心的遺構とされる山中御殿跡  富田城は能義郡広瀬町富田に位置し飯梨川右岸の月山(海抜189m)を中心にして築かれた複郭式の山城である。城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の三つの入口がある。周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠くことの出来ない立地条件を具備しており、中国地方における中世城郭の代表的な城跡として重要視されている。
 伝承によれば、保元、平治の頃平氏の武将によって築城されたと冶云われる。文治元年(1185年)佐々木義晴が出雲の守護として入城以来、それ以後塩冶、佐々木、山名、京極、尼子、毛利、堀尾の各氏が歴代城主として交替している。が最も栄耀栄華をきわめたのは引用11ヶ国を領有した尼子の時期である。慶長16年(1611)堀尾吉晴の歿するまで427年に及ぶ間軍政上の一大拠点であった。
 ◆山中御殿
 富田城の御殿があったと伝えられる場所で、通称山中御殿と呼ばれています。月山の中腹に位置する山中御殿は、菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終地点ともなっており、最後の砦となる三の丸、二の丸、本丸へ通じる要の曲輪として造られました。まさに山中御殿は富田城の心臓部と言えるでしょう。周囲には高さ5メートル程の石垣や、門・櫓・塀などを厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いでいました。整備工事は昭和49〜57年度、平成5〜8年度で行いました。石垣の調査を中心とした発掘調査では門・石段・井戸・櫓跡などが見つかり、塩谷口で見つかった門跡はなかでも特徴的なものです。

『月山富田城跡案内板』より

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資料
 

私見
二の丸の下に作られた石垣 本丸側から二の丸を振り返ります。  尼子の本城として難攻不落を誇っていた月山富田城は、大河ドラマの影響でかなり復元作業が進められていました。川沿いの城跡を表す石碑脇の細い小道を数百メートル車で進むとコンクリートがむき出しになったトンネルが見えてきます。車をそのすぐ向こうへ止めるとすぐに本丸を目指して月山を登り始めました。「本丸まで20分」と書かれた看板を信じて険しい石段を登っていくと、三の丸、二の丸、そして本丸が順に見えてきます。なかでも圧巻なのは二の丸跡から見える眺望です。まわりの山並みを遠くまで見渡すことができるその景色は、迫り来る毛利の大軍を想像させてくれました。すぐ前は険しい断崖が迫っており、まさに天険の城壁に守られた堅城であることが実感できます。また復元作業が一段落したら訪れてみたいところです。

 7年ぶりの登城です。道の駅に車を停めてそこから登っていくのがいいでしょう。山中鹿ノ介の像もありますし、花の壇も当時の侍所を復元してくれていますので往時への想像を膨らませながら登っていくことができるようになっています。今だ工事中の軍用大井戸前を通り、大手門そして山中御殿へと続く遺構ラッシュにテンションは自然とあがっていきますね。山中御殿の開けた眺望とあまりにも美しく整備された状況にしばし腰を下ろし、流れ行く雲に目をやりながら贅沢な時間を過ごしていました。
月山富田城の本丸  そのあと山中御殿を一周してみます。櫓台の石垣や石垣造りの井戸など見るべきところが多いですね。7年前はただ富田城に来たことだけでいっぱいいっぱいでほとんど見てなかったのだろうな、と(ほとんど記憶がないのですが)振り返っていました。
   あとはそのまま七曲りを経て、三の丸、二の丸と石垣が高く積み上げられた郭を登っていきます。二の丸での景色を観てはじめて再訪している実感を得ました。それほどまでに印象深い景色なのでしょうね。また、本丸との距離間や、本丸側から振り返った二の丸の石垣もまた特徴的で、堅牢な山城ぶりを体感させてくれます。
 三の丸から本丸までそれぞれが非常に長くて大きなものになっているのも月山富田城の特徴の1つなのでしょうか。そういえば城内のあちこちに「まむし、ハチ注意」の手書き案内があがっていました。幸いにしてまったく遭遇しなかったのですが、唯一ハチを見たのが本丸奥にある勝日高守神社手前にある石灯篭でした。そこがハチの巣になっているようでしたので、訪れられる方は十分に注意をして登城するようにしてください。
 月山の周辺には山中鹿ノ介の生誕の地や、新宮党の館跡、その他史跡が数多く存在しています。この一帯だけでも1日楽しめると思いますのでぜひ訪れてみてください。
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