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久能山城跡
登城日:(2000.08.27)
所在地: 清水市、久能山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 千段以上の石段です・・・まだ果てしない。  永禄十一年十二月(1568)、武田信玄は当山が要害の地であることを知って寺院を清水北矢部に移し城砦を築いて久能山城と称した。天正十年(1582)武田氏が滅亡したので徳川の有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである。

◆勘介井戸
 この井戸は、戦国時代に山本勘介が掘ったといわれ今から約四百年前の久能山城を語る貴重な文化財である。深さ三十三メートル石垣積で今回蓋を作り保存につとめると共に照明装置を施し、内部がよく見られるようにした。この協賛金は井戸保存費である。

◆久能山東照宮
 元和二年(1616)四月、大御所徳川家康公が駿府城にて死去。家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。二代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。  このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。

久能山案内版より

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資料  

私見 勘介井戸。有料で中が覗けます。  めちゃくちゃ暑いというのになにを血迷ったか、石段を上って久能山をあがることになりました。その石段の数千余り。でも思ったよりは簡単にあがれてしまったきがします。当時ここが城であったときのことを想像してみましたが、こんなところに建てられてたらとても攻め上ろうなんて考えないでしょうね。登るだけでばてばてですって・・  途中、勘介井戸がありました。なぜかお金をいれると覗けるような仕組みが造ってあったのですが、この時は分けがわかりませんでした。あとで写真を見てようやく意味がわかりました。なるほど、望遠鏡で井戸の中身を見せてくれるんですね。でも、見たい?普通。
 一番上まであがり汗を一通り拭うとさらに上には東照宮が控えています。実際、久能山城の本丸等、郭はそのなかにあるのでしょうが、もう体力的にいっぱいいっぱいで、我々はこのあとその横についているロープウェイにて日本平に観光へと向かいました。
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