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横須賀城跡
登城日:(2000.08.26)
所在地: 小笠郡大須賀町横須賀
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 横須賀城本丸跡  横須賀城は今からおよそ四百年前(1578)天正年間に徳川家康の命によってその武将大須賀康高が築城して、初代の城主となった城です。
 当時は徳川武田の両軍が高天神城をめぐって激しい攻防戦を繰り返していた戦国騒乱のさなかで、武田方の高天神城に対抗し武田の西方進出を押さえるためにいわゆる兵術道の要塞の地であるここを選び築城したものです。構築の特徴は土塁と石塁がある平山城です。
 その後徳川の天下となり江戸幕府が開かれてからも三百年近く存続し城主も二十代を経て明治維新に際し廃城の運命となりました。
 その間城下町横須賀は百十五村の藩政の中心となって栄えました。
 明治六年建物などは取りのぞかれましたが城跡は大体原型をとどめていて学問上貴重な分化財です。 横須賀城  横須賀城(別名 松尾城)は小笠山の支脈が南に延びて平地に接する地点に位置した平山城であった。
 天正三年(1573)長篠合戦の勝利をうけて武田勝頼の高天神城奪還を企図した徳川家康が天正六年(1578)から同八年にかけて、武将大須賀康高に命じて築城させたものに次いで同人を初代の城主に命じた爾来城主二十代約三百年の間武門の拠点藩政の中心となっていたが明治維新に際して廃城となった。
 城跡の天守台・本丸・西の丸・北の丸・松尾山・空濠等の遺構はほぼ旧態を残しており武田方の諏訪原城跡、武田・徳川方の争奪地となった高天神城跡(いずれも国史跡)とともに武田氏の進出と衰亡と徳川氏の成長過程を知る上にも貴重な文化財である。

『横須賀城跡案内板』より

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資料 ◆歴代城主
城主名 城主期間 禄高
大須賀五郎左衛門尉康高 天正八〜天正十六 1580〜1588 3万石
大須賀五郎左衛門忠政 天正十六〜天正十八 1580〜1590 3万石
渡瀬左衛門佐繁詮 天正十八〜文禄四 1590〜1595 3万石
有馬玄蕃頭豊氏(氏長) 文禄四〜慶長五 1595〜1600 3万石
松平(大須賀)出羽守忠政 慶長六〜慶長十二 1601〜1607 5万5千石
松平(大須賀)五郎左衛門忠次 慶長十二〜元和元 1607〜1615 5万5千石
徳川常陸介頼宣(駿府城主) 元和元〜元和五 1615〜1619 (駿遠)50万石
松平(能見)大隈守重勝 元和五〜元和六 1619〜1620 2万6千石
松平(能見)丹後守重忠 元和六〜元和七 1620〜1621 2万6千石
井上主計頭正就 元和八〜寛永五 1622〜1628 5万2千石
井上河内守正利 寛永五〜正保二 1628〜1645 4万5千石
本多越前守利長 正保二〜天和二 1645〜1682 5万石
西尾隠岐守忠政 天和二〜正徳三 1682〜1713 2万5千石
西尾隠岐守忠尚 正徳三〜宝暦十 1713〜1760 3万石
西尾主水守忠需 宝暦十〜天明二 1760〜1782 3万5千石
西尾隠岐守忠移 天明二〜享和元 1782〜1801 3万5千石
西尾隠岐守忠善 享和元〜文政十二 1801〜1829 3万5千石
西尾隠岐守忠固 文政十二〜天保十四 1829〜1843 3万5千石
西尾隠岐守忠受 天保十四〜文久元 1843〜1861 3万5千石
西尾隠岐守忠篤 文久元〜明治元 1861〜1868 3万5千石

私見 横須賀城本丸から南へ  ここはさすが国の史跡の指定を受けているだけあってきれいに整備されています。もちろん駐車場も完備しており、車で登城されるかたにはありがたいですね。
 西の丸跡を通って、本丸跡地へと向かいます。あちこちに土塁が発掘されており、本丸奥には天守台が復元されています。また、城郭を形どった復元模型までおかれているほど、ここを訪れる人には至れりつくせりといった好印象です。私もここで結構時間をとってしまいました。といっても駐車場内でPHSカードを使ってダイアルアップ接続してただけなんですけどね。(^^;
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