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松戸城跡
登城日:(2001.09.01)
所在地: 松戸市松戸字根古屋、戸定
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 戸定が丘歴史公園  松戸城は近隣に相模台城根本城と同様に江戸川に面した下総台地の西端の舌状台地上にあり、武蔵平野を眼下に一望する景観の地に位置している。
 具体的な築城時期は明らかでないが、天正十年(1582)当時は、小金城主高城胤辰の一族高城筑前守が城主であったといわれている。つまり小金城の支城としての役割をはたしていたようである。
 近世に入ると、松戸近辺は徳川氏の旗本知行地となり、松戸城は高木筑後守正次が、文録二年(1593)から引き続いてその子の正勝が、明暦三年(1657)まで館を設けて在城していた。
 現在は戸定が丘歴史公園がその城域として残っている。城の西部は常磐線の開通により大部分が消滅しているが、線路をはさんだ向いにある松龍寺も松戸城内だったとも言われている。

  ◆戸定邸(旧徳川昭武松戸別邸)
 第11代水戸藩主であった徳川昭武は、明治17年に江戸川を望む風光明媚なこの戸定の地に別邸を建てました。遠く冨士、筑波を望む雄大な眺望と芝生を配した洋風の庭園は華族の住いの風格と規模にふさわしいものでした。
 芝生の周囲にコウヤマキ、スダジイ、クヌギ、コナラ等を配したこの庭園は、いつも四季折々の風情が楽しめます。昭和61年、庭園と敷地一帯が千葉県教育委員会より名勝に指定されました。

戸定が丘歴史公園 ◆戸定館由来
 当邸は、第十五代将軍徳川慶喜公の舎弟である水戸家第十一代藩主徳川昭武公(節公)が明治十六年に松戸別邸として建てられた近世武家屋敷造りの建物である。公はニ十数年間を当邸に過ごされ、明治二十一年には子息武定公をもうけられた。この間明治三十五年四月二十二日には後に大正天皇となられた交代しの行啓を仰ぐなど、多くの皇族方も長期にわたって滞在された由緒ある屋敷である。
 なお庭園は、慶応三年パリで開催された万国博覧会に将軍代理として渡欧された昭武公が心をひかれた洋式庭園の長所を採り入れて造園した当時としては画期的な庭園である。
 昭武公の子息武定公は子爵を賜り工学博士号を得て後に海軍技術中将に累進し潜水艦の最高権威として著名な方で当邸に永く居住されていたが、昭和二十六年公は当邸を市民の文化施設として利用して欲しいという意向をもって敷地二千百余坪、建物二百三十八坪を市に寄贈された。
 市は地名に囲みこの施設を戸定館と命名した。

『松戸城跡案内板』より

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資料  

私見 戸定が丘歴史公園  松戸駅周辺にいくつか城跡があるのですが、この松戸城もその一つです。現在は小高い丘の上にある、戸定が丘歴史公園が城域としてその中に遺構もあったようですが、私にはわかりませんでした。しかしここはほんと美しい庭です。刈り揃えられた芝生、整然とした雰囲気壁紙にもってこいの風景(笑)でした。
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