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大堀城跡
登城日:(2002.09.29)
所在地: 松戸市下矢切、西蓮寺
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 野菊の墓文学碑も建つ大堀城跡 ◆史跡 国府台の戦争
 今から約四百年前、この国府台で二度の大戦争があった。それぞれ敵味方千人以上の戦死者がここに屍をさらした。
 今の真間山から松戸駅東側の台地までを国府台といい、第一回の戦争は天文七年(1538)十月七日、相模台の合戦ともいい、これを前の国府台合戦という。
 第二回はこれより二十五年後の永禄七年(1564)正月七日の合戦で、これを後の国府台合戦という。
 それはここ矢切台で戦われた。
◆合戦の背景
 この時代の関東地方は、だいたい小田原の北条氏の勢力下にあり、松戸大谷口城主高城氏や、千葉氏、原氏などもその支配下にあった。これに対して、安房上総地方を侵略して勢力を拡大した里見氏は、県北の下総地方へも手を伸ばして千葉、原、高城らを攻め、やがて北条氏をも破って関東の実権を握ろうと野望をいだいて茨城の佐竹氏を通して上杉謙信とも手を結んだ。
◆合戦のもよう
 矢切側には里見義弘を大将として八千騎、これに対して江戸川柴又、小岩側に北条側は、江戸城代家老遠山丹波守直景と、葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣した。
 この時、小金太谷口城主高城氏も北条方に加勢のため、下矢切大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り、遠山軍を助けた。
 遠山、富永等は大将北条氏康、氏政父子の到着を待たず、矢切の渡しを押し渡り、国府台から栗山、矢切へかけての里見軍へ攻め寄せた。
 遠山軍に押された里見軍は、いったん退却するかに見せかけたが勢いにのった遠山軍は、大坂の途中まで攻め上った所を、一挙に坂上から攻め落とした。
 この坂上で落馬した富永三郎右衛門尉は、折り重なった里見軍に首打たれた。
 その場所は、ここ文字碑わきの坂道であった。
 遠山丹波守はこの坂下、坂川の手前の「カイカベ曲がり目の内野」という所で、里見山之介という十六歳の少年に首を渡した。
 この夜半、戦勝の酒に酔いしれた里見軍の将兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ、さんざんの大敗戦となり、大将里見義弘は、市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、其の後、再起することがなかった。
 本土寺過去帳に「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿 祖外千余人」と書いてある。

『大堀城跡案内板』より

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資料  

私見 江戸川を一望できるロケーション  松戸市南部の、市川市にほど近いところにある西蓮寺が大堀城跡です。たどり着くためには住宅地内の細い道をくねくねといかないといけないので分かり難いかもしれませんが、地図には「野菊の墓文学碑」という目印がついてるかもしれません。実は大堀城跡である西蓮寺の裏手(といっても同じ敷地内)に、野菊の墓文学碑があるのです。ですからそれが絶好のランドマークになると思います。
 江戸川流域を広範囲で眺めることのできるロケーションにある西蓮寺は高台の一番高いところに立地しており、戦場での陣を張るにはまさにふさわしいところでした。現在は遺構は特になく、「小弓公方城跡」の碑があるだけのようです。ま、私にはそれさえ見つけられなかったですが・・(^^;
 寺裏手側には国府台の戦についての文章が掲げられていますので、まそれを読みながらまわりの景色を見渡せば十分かつての風景が頭に浮かんでくるんじゃないでしょうか?・・・ってないか。
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