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丹鶴城跡
登城日:(1999.04.06)
所在地: 新宮市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 花見大会の準備中の城跡  正保元年(1644)、幕府は各藩に命じて城郭・城下図を提出させた。
 天守台、本丸と分離(橋で連絡)した出丸、鐘ノ丸、松ノ丸、山麓には二の丸(現正明保育園)、水ノ手の船着き場までのエリア(郭)を、上から下へ連郭式に配している。大手道、松ノ丸と水ノ手を結ぶ道などもみえ、現状とほぼ一致した構造を描く。

 この丹鶴城公園は新宮川畔と熊野灘を見渡す眺望絶佳の景勝の地にあって、別名を沖見城とも呼ばれた要害にして風情のある丹鶴城跡であり熊野の歴史とロマンを秘めた市民の憩いの場所として開設されたものである。
 この城跡は川と海の自然の美と地形を巧みに取り入れた平山城として、わが国の数ある城郭の中で他にその比がないといわれたものであるが、今はその重厚な石垣に名残りをとどめるものになっており悠久の川の流れとともに深い熊野の歴史を語りかけている。
 城跡となった丹鶴山付近は平安時代から新宮における要衝の地点であった。
 熊野三山を支配していた九代熊野別当が別邸をつくりその後丹鶴姫によって東端付近に東仙寺が開山され、以後源氏再興の口火を切った。 天守台跡は綺麗に残っています。  源新宮十郎行家が山城を築いたともいわれており、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、それまで熊野地方に君臨していた堀内氏に替わり浅野忠吉が新宮に入り、翌六年より築城に着手し紀州藩の熊野統治の拠点となった。
 元和元年(1615)幕府の一国一城令により廃城となるがその後着工を許され元和五年(1619)には九間四方の大天守、三間四間の小天守をもつ天守丸、二の丸、出丸などが配されたが同年、浅野氏は芸州に国替えとなり徳川頼宣の付家老として水野重仲が三万五千石で入城、前代の工事から引き続き寛永十年(1633)城は完成された。
 明治の廃藩置県で廃城となり、城内の建物は全て解体され、浅野一代、水野十代にわたり約270年も続いた城の歴史は消えたが、ここに新しく熊野の文化を継承し市民の憩いの場として都市公園法にもとづく整備を行ったものである。

『丹鶴城案内』より


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資料  

私見 花見シーズンですねぇ  上空で雷鳴が鳴り響く悪天候の中、びびりながら石階段を上っていきました。折りしも時期が花見シーズンということで桜が満開です。しかし、あちこちに提灯が釣り下げられていたのには閉口しました。どんなにアングルを考えても構図内に提灯が入ってしまいます。なんでここまで宴会場にしてしまえるんだ?!>新宮市。
 しかし、眺望はさすがになかなかのものです。見事に海と川の自然の美を取り込んでおり、米子城と通じるものがあるなと感じました。
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