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武田氏館(躑躅ヶ崎館)

武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)


登城日:(2009.02.20)
所在地: 甲府市古府中町、武田神社
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
武田神社となっている武田氏館 武田神社となっている武田氏館  「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正十六年(1519)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約七十年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。  館は、一辺が約二百メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。  この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。

◆惣堀北側虎口
整備された武田氏館の大手(現地案内板より)  武田氏館の正面玄関にあたる大手東側一帯には惣堀と土塁で囲まれた曲輪が形成されたことが明らかとなっています。惣堀には整備前から古道である鍛冶小路に面して南北2箇所の土橋が架けられていました。土橋は、貞享三年(1686)の古府中村絵図(武田神社蔵)に描かれているので、江戸時代前期にはすでに存在していたようです。
 発掘調査以前は、鍛冶小路側から土橋をわたると通路は途絶えていましたが、調査を進めると、石を配した階段が発見されました。石階段は全体を粘土混じりの礫石で覆われた状態で発見されているので、自然堆積によって埋まったものではなく、曲輪の機能が停止した段階で人為的に封じ込められたと考えられます。
武田氏館大手前の石塁と土塁 大手前に高い土塁が復元されています。  約400年の時を経て姿を現した戦国時代のこの階段は、南北両端が後世の開発等により破壊されていますが、大手東側に築かれた曲輪の虎口と考えられ、その規模は、全長約2.2メートル、幅約6.2メートルを計ります。虎口の門につきましては、水路などによる後世の広場では確認されませんでしたので、門は階段上に存在した可能性が高いと考えられます。整備事業では、戦国時代の石階段は保護するために埋設し、その上に同じような形で復元しています。

◆大手石塁と三日月堀
三日月堀と復元された石塁(現地案内板より)  武田氏館の正面玄関にあたる大手正面には、館の出入口である虎口を守るために築かれた石塁が存在します。石塁は、石積みの技法などから武田氏滅亡後に築かれたものと考えられます。
 また、石塁の直下からは新たに三日月堀が発見されました。三日月堀は、丸馬出と呼ばれる館の出入口を守る施設の一部であり、内側に土塁を伴っている場合が多いようです。丸馬出は、武田氏領国内で数多く確認されていることから、武田氏が積極的に用いた施設と考えられています。山梨県では新府城跡(韮崎市)に続き2例目となりました。
 このように、武田氏時代の遺構とその後の勢力によって築かれた遺構が重なり合って発見されています。

◆発掘された武田氏館跡大手
 大手東側には惣堀と土塁で囲まれた曲輪の存在が確認されています。曲輪内の広場のうち上段部では、惣堀に架かる北側土橋の曲輪側から石階段が発見され、その下段に付設されている南側土橋では門礎石が確認されています。
 土橋から館跡へ向かって進むと、武田氏館の正面玄関である大手土橋の前に武田氏滅亡後に築かれた石塁が存在しています。石塁直下には三日月堀など武田氏時代の生活面が確認されているため、現在大手日東側でみられる施設は、武田氏滅亡後に甲斐を支配した新たな領主によって大きく造り直されたと考えられます。
 武田氏館跡は戦国大名武田氏の本拠地であるとともに、その後の勢力による甲斐国統治の拠点としての側面もあります。その意味で戦国の戦乱期から天下統一へ向かう歴史全体の動きをしる上で貴重な史跡です。

『武田氏館跡案内板』より

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資料
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私見
武田氏館西曲輪への土橋 武田氏館西曲輪の土塁  7年ぶりに武田氏館にやってきました。前回のイメージと変わらずにそのままのところもありますが、武田神社東側の大手まわりはかなり変わってしまいましたね。とりあえずは武田神社の正面から入るとまずはお参りを済ませます。で、今回の目的であった新たに整備された東側を中心に見て回ることにします。詳しい説明は上述の案内文に任せるとして、石塁とその先にある土塁を含む一帯の景色が完全にかつての姿と違ってしまったことにまず驚きました。案内板を見ると石塁は武田氏以後のもので、その下から武田の城郭に見られる三日月堀もあったとあります。うーん・・・確かに後の時代のものを活かすことでその下の層を保護することになるとは言え、今後武田氏館はどう整備されていくのでしょうねぇ。単純に「信玄の居城」というだけじゃなく、武田氏滅亡後の姿も見せて幅広い歴史を伝えていこうということなんでしょうか。2019年の武田信虎の建都500年を目指して整備が進められていますが500年前の姿ではなく、戦国期末期の同城を見ることができるということになるのか大変興味深いところです。
武田氏館中曲輪北側の堀底に残る石垣  さて、神社の東側の堀を見ながら歩いていると時折、斜面に石垣の石が残っていることに気づきます。大手前の石塁もいいのですが、こういうちょっとしたものに有りがたさを感じてしまうのは私だけでしょうか(^^;。
 北側の曲輪跡は花が植えられた公園となっていたり、畑地や空き地状態だったりして整備を待っているかの印象を受けます。また堀の周囲は木が茂っており堀底をうかがうことができなくなっていますが、見やすくなるんでしょうか。

 次に北側の橋を渡って西曲輪へと入ってきます。ここは勝頼が拡張した曲輪ということです。堀底もよく見渡せるようになり、ところどころに石垣跡が見られます。中曲輪のほうへ視線を向けると曲輪上に石垣が見えているのがわかりますが、ここは武田神社の配置図にもあった天守台の石垣になります。時代としては武田氏以降のものだとされています。詳しく見に行きたいところですが、「立ち入り禁止」エリアだということです。実際には中曲輪の南側土塁前にロープが張られて、それ以上は踏み込まないように意志表示がされていますが、天守台へ行こうと思えば別方面から立ち入ることは可能でしょう。が、ここはお城ファンとして良識ある行動をとられることを強くお願いいたします。心ない訪問者があとを絶たないので地権者が城跡自体を立ち入り禁止とした例もあります。全国的にも有名なこの武田氏館(躑躅ヶ崎館)を今後も楽しむことができるよう、許可された範囲内を散策するようにしましょう。(現地の案内表記があいまいだと思いましたので、あえて書かせていただきました。)
南側に残る折れを持つ水濠 大手そばの堀  そういえばすっかり忘れていましたが、東曲輪内にある宝物館に入ってませんでした。日本100名城のスタンプもですが、中の展示物も未確認です(;_;)。なんとなく秘宝館のような響きに思わず後回しにしようと思ったのが悔やまれます。

 武田氏館の周辺には有名な武田の武将達の屋敷跡を示す標識が設置されています。高坂弾正、馬場美濃、内藤修理などの武将達の標識を探しまわるのも結構楽しいものですよ。また顔認識機能を持つカメラで撮影すると顔だと認識してくれる標識もあって、違った遊び方もできます(^^
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