
北ノ庄 越前一向一揆を追った織田信長は、柴田勝家に越前八郡49万石を与えた。勝家は天正3円(1575)北庄の地に平城の城郭を築いた。しかし、9年後の同11年に、羽柴秀吉郡の攻撃で火炎に包まれ、そのことごとくが灰燼に帰した。その城跡は、あとの慶長6年(1601)結城秀康が改築した北庄城(現在の福井城)より、少しばかり南の位置らしく、現在の柴田神社の境内内に天守があったと伝えられている。
しかし、柴田勝家の北庄城については不明な点が多く、いまだ謎とされているところが多い。天正3年(1575)築城の縄張りをし、翌4年以後工事が進められたが、足羽川と吉野川の合流点を本丸のポイントに、北へ二の丸、三の丸を配した。同6年にも再度の修理をおこない城郭を拡張しているが、流れに対する補強工事を固めたようだ。同9年に至っても工事は続行された。その結構は「城中ニ矢蔵を高く築き、天守を九重ニ上せ候」と秀吉が毛利輝元へ宛てた書状にも記されている。おそらく信長が
安土に築いた外観五層、内部七階の天守に優るとも劣らない構造だったようである。
天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が自刃したあと、後継者をめぐって羽柴秀吉と争い、翌11年に賎ヶ岳の合戦で大敗して後退を余儀なくされた勝家は、城へ火を放ち妻と共に自刃した。
『日本の名城・古城事典』TBSブリタニカより