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功山城(妻鹿城、国府山城)

功山城跡


登城日:(2003.05.18→2013.08.11)
所在地: 姫路市飾磨区妻鹿
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
神社境内にある妻鹿城址碑 案内板にある郭配置図?ちょっと曖昧  功山城(国府山城、妻鹿城とも)は、市川左岸の甲山(標高102メートル)にあり、別称を妻鹿城・国府山城・甲山・袴垂城(はかまたれ)ともいわれています。
 初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。
 その後、姫路城内で生まれた黒田官兵衛孝高の父職隆は、天正元年(1573)に姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正八年(1580)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としました。これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。
 官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩五六万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。
 天正十三年(1585)職隆が没した後は、廃城となったようです。なお、職隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。

 甲山経塚
見晴しのいい場所にある甲山経塚  甲山は御旅山の北西端に位置し、経塚はその緩やかな山頂部の突端に造営されている。
 経塚とは経文を容器(経筒)に入れて土中に埋納した遺跡である。経典を後世に伝え、その仏教的な作善行為によって極楽往生を願う経塚の造営は平安時代中期以降に全国的に盛行した。
 甲山経塚は昭和四十二年に地元有志の調査によって発見され、その後の調査で立石状に露頭した岩の周囲で3基の埋納坑が確認された。埋納坑は板石で囲んで構築されていた。
 遺跡は土師質外容器・経筒、須恵器甕、青白磁合子、泥塔、銅鏡、銅銭などが出土した。このうち泥塔は塔身に二仏の坐像が陽形の笵で浮き出されている。同一型式のものが甲山南麓の荒神社に御神体として祀られていた。類例が乏しく珍しいものである。須恵器甕は香川県の甕山窯の製品で平安時代中期から後期のものと考えられる。
 また、経塚周辺から鎌倉時代から室町時代の瓦質土器土釜・土師器香炉・白磁皿など出土しており、中世を通じて信仰されてきた可能性がある。(平成二十三年六月)

『功山城跡案内板』より

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資料
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私見
鬱蒼とした現状 主郭からの眺めがすばらしい 山上あちこちにみられる巨石  国府山城は、甲山の南側麓にある荒神社の境内からあがっていくと、社の右手前から城跡へとあがる道がつくられています。その前に・・私としては国府山城と言いたいのですが、城址碑には「妻鹿城」となっていますし、案内板には功山城・・実に面倒ですね。とりあえず案内板に従い、功山城で統一しておきます。
 甲山は比高100メートルほどの小さな山なんですが、結構入り組んだ構造になっているように見えます。また途中何箇所かが平坦な地形をつくられており、曲輪跡が確認できました。途中が鬱蒼としていて夏場は藪蚊の攻撃がすごくて落ち着いて見られないのが残念なところです。しかし主郭からは姫路城がよく見渡せて、なかなかのロケーションですね。この景色のために来たといってもいいくらいです。2014年の大河ドラマの際にはこのお城も取り上げられることでしょうね。また季節を変えて再訪し、麓の案内板に書かれていた石垣を確認したいと思います。
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