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二条古城跡


登城日:(2006.09.15→2010.02.06)
所在地: 京都市上京区武衛陣町辺り
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
二条古城の城域内にひっそり佇む古城碑  永禄十二年(1569)正月、三好三人衆によって将軍足利義昭の居館であった本圀寺を襲撃されたことを受け、織田信長が洛中の中央部に築城したのが二条古城である。この築城の際に多くの石仏を転用して石垣としたという記録がある。
 天正元年(1573)信長によって足利義昭が京を追放され、ここに室町幕府は滅亡となる。その時二条古城は廃城となったようである。後に誠仁親王の御所にあてられたが、安土城築城の際に資材が解体され、その多くが安土に運ばれてしまった。 『日本城郭体系11』新人物往来社刊参照
◆旧二条城の石垣
京都御所内に移された二条古城の石垣  築城当時、日本において布教活動をしていたポルトガルの宣教師、ルイス=フロイスの記録によれば、旧二条城というのは現在の二条城以前に、永禄十二年(1569)二月に工事を開始し、常時一万五千人から二万五千人の人役を投入し七十日間程でほぼ全容を整えたということであり、期間を極めて短くするために石垣の石材に近郷の石仏・板碑・燈籠等を徴集し、積み込んだと記載されているが、そのとおりの石仏などがこの遺構に見られる。その後、信長は義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ「二条御所」とも呼ばれたいた。
 天正十年(1582)の本能寺の変において明智勢に攻め入られ信長の長子、信忠が自刃し城郭建築は焼失した。
 この石垣は、京都市高速鉄道烏丸線(地下鉄)建設に際し、烏丸下立売から発見されたものである。石垣は「犬走り」をはさんで上下二段に分かれて北面し、東西方向に走り、東南方向に折れる角をもつ。この遺構は移築に際し方向が90度ほど変わったが、元来は東西方向が長く、8メートル強を測り、普通の石材約150個の他に40個程の石仏・板碑・礎石が使われている。『二条城内案内板』より
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資料 【地図を表示する】
 

私見
二条古城の中心部には現在のお城?(^^;  京都市内でも貴重な観光スポットでもある二条城。そこから北東約900メートルほどのところに織田信長が築城したもうひとつの二条城がありました。ちょうど現在の平安女学院が建つあたりを中心に、東は烏丸通り、南は丸太町通り、西は病院があるあたりまでの規模だったようです。地下鉄烏丸線建設の際に当時の石垣が多く見つかったり、また後の発掘調査により堀跡が3箇所見つかったようです。しかし、この状態ではとても発掘したものを保存することはできないでしょうからまた埋め戻してしまったのですね。
 石垣が一部見られる場所があるらしいのですが、どこなんでしょうか。突貫工事を行い、石仏を転用した当時の石垣を是非とも拝ませてもらいたいです。
 たまたま仕事でこの辺りに来ていたところでしたのでついでにぶらぶら歩いてみました。平安女学院の北西隅に小さな城址碑を見つけました。碑があることは知りませんでしたので達成感がありましたよ(笑)。しかし、警備員さんの視線が怖かったので、冷静に写真を撮っている姿が怪しく映ってしまったかもしれませんが(^^;。
二条城内に移された二条古城の石垣  3年ぶりにやってきましたのは、二条古城の遺構である石垣が2箇所で見られるのを確認するためでしした。まず1つ目が京都御所南西隅近くに積み上げられた石垣。なんだか適当に積んだかのような見た目にも美しくない石垣だなと思ってしまいました。これは転用石などが含まれたものからくるものなのでしょうか。
 そして2つ目は二条城の本丸奥に積み上げられた石垣です。こちらは案内板の文章を読まないとわからない2段構成となっており、中央部分が犬走りなのでしょうか。こちらもまた随分と粗く、そして崩れかけたような印象を受けますが、よく見れば様々な石材が混じっているのがわかります。はたしてこの石垣で当時どのような石垣になっていたのでしょうね。でもまぁこの2箇所の石垣が見れただけで満足感が全然違うのですから、不思議なものです。
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