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山崎城跡
登城日:(2005.01.30)
所在地: 乙訓郡大山崎町字大山崎
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
山崎合戦碑の眼下にはかつての合戦地が一望できます  山崎城(鳥取尾山城とも)の起源は古く南北朝の初期頃とされている。男山に籠城する北畠顕信らに呼応して蠢動する摂津国の南朝勢を京都から防禦するために摂津守護赤松範資が築城したものと推定されている。その後、応仁の乱後には山城守護山名是豊が当時西岡を支配していた西軍の畠山義就や摂津の大内政弘らに対抗するために当城を修築したようである。
 その後、細川晴元や三好長慶らが利用するなど重要な役割を果たしていた。天正十年(1582)六月の本能寺の変のあと、備中高松城から戻った羽柴秀吉と神戸信孝らの軍に対し、明智光秀は男山と当城に陣取ったもののすぐに淀、勝竜寺城に引き下がってしまう。そこをすかさず秀吉が天王山を占拠し、一気に光秀勢を追い落とした。
 秀吉はそのまま翌十一年(1583)の大坂城に移るまで本拠としていた。

かつての大手道には土塁がよく残っています。 ◆天正山崎合戦
 天下分け目の天王山。天正10年(1582)6月13日、中国備中高松城攻めを急遽おさめ、西国街道をひた走りに帰洛した羽柴秀吉と、主君織田信長を討った明智光秀は眼下小泉川付近に激突した。戦いは夕刻4時ごろから始まり、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わった。敗北を知った明智兵は方々に飛散し、光秀も本陣後方の勝竜寺城に退去した。次いでわずかな手勢を伴なって近江へと逃れていったのである。一端勢いを失った者の先行きは急坂をころげ落ちるかのようである。ついには山科小来栖で土民の竹槍にかかり乱世の戦いに明け暮れした短い生涯を閉じた。”天王山の合戦”真に秀吉が戦国時代の群雄割拠から抜け出し、天下統一への足がかりをつかんだ合戦であったと言える。
 眼下の山と川とが迫るわずかな平地で繰り広げられた合戦、それが天正山崎合戦であった。

『日本城郭体系11』新人物往来社刊参照他

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資料
 

私見
竹林内に残る石垣 井戸跡まわりにも土塁  山崎城跡へはハイキングコースになっているようで、山麓を大きなリュックを担いで歩く人たちを何度か見た。私は車で宝積寺の駐車場まであがってからの登城として楽をさせてもらいました(^-^;
 標高270メートル、比高240メートルは壮観ですね。途中山崎の合戦跡碑があるところでは街道を見下ろすことができ、ここで所謂天下分け目の合戦があったんだと思うと感無量です。城域はどのあたりからかというとはっきりとはわかりませんが、酒解神社を越えたあたりからではないかと思います。今は閉鎖されていますがかつての大手道が残されており、立派な土塁だけは柵越しにも確認することができました。頂上部は予想以上に広く、削平地というよりは広場といった感がありますが(汗)、南側、西側への広がりが見えます。特に南側には門跡(今はほとんどわかりませんが)を過ぎ、井戸があります。そのまわりにも土塁がよく残っています。このあたりが天守台跡なのでしょうかねぇ。また、その下の段を降りていくと竹林の中に崩れかかった石垣が数箇所確認できます。最初の広場に出たという第一印象からは想像できなかった遺構の状況にはかなりの感動ものでした。
 また、同行してくださっていた方の案内で北側斜面にも石積みがあることと、大きな竪堀を教えていただきました。
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