HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

彦根城

登城日:(1999.01.31→2010.03.06)
所在地: 彦根市金亀町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
彦根城の模型 彦根城天守  この彦根城は、慶長五年(1600)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長六年(1601)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長八年(1603)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、元和八年(1622)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25平方キロメートル(75,800余坪)周囲約4キロメートル(1里)高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952)には天守閣を国宝に、同31年(1956)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。


 天守閣(国宝)
天守閣は、京極高次が築いた大津城の天守を移築したものといわれ、慶長11年(1606)に完成した。石垣は「ごぼう積み」といって外見粗雑に見えるが、頑丈な積み方で彦根城特有のものである。また天守閣は規模こそ小さいが、巧みに組み合わされた屋根の配置が実に妙を得たものとなっている。

 佐和口多聞櫓の壁
佐和口多聞櫓の波打つ壁  佐和口多聞櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁となっています。土壁は、竹を縦横に組んだ竹小舞を骨組みとして藁縄を絡め、それに荒壁、中塗り、白漆喰の順に塗り重ねていきます。建物の外面は、柱などを土壁で完全に塗りこめる「大壁塗り」、内面は柱を見せる「真壁塗り」となっていますが、内面でも貫の部分は塗りこめられて内壁の表面が波打っています。
 また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしています。その厚さは30センチを超えています。このように厚くなっているのは、防弾の必要な壁面の中位より下であり、それより上方は通常の土壁としています。
 佐和口多聞櫓のどちら側が二重壁になっているか、確認してみてください。二重壁のある側には、敵を監視する窓や○と△の鉄砲狭間も設けられており、眼下は中堀に面した外敵になっているはずです。
 なお、細長い多聞櫓の室内の2箇所には、片面に壁土を塗り込めた「防火間仕切」が設けられています。この間仕切は屋根裏まで立ち上がっています。併せてご確認ください。

 登り石垣
彦根城の図 彦根城の登り石垣  彦根城には、全国的には珍しい「登り石垣」が5箇所に築かれています。
 登り石垣は、文字どおり山の斜面を登るように築かれた石垣です。斜面をよく見ていただくと、高さ1メートルほどの石垣が鐘の丸に向かって伸びていくのがご覧いただけると思います。石垣の向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪堀」で、登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。かつてこの石垣の上には、さらに瓦塀が乗っていたようです。
 登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」において顕著に見られる城郭遺構です。日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)など限られた城にしか見ることができません。

 階段のついた高御廊下を渡った建物は、いっそう私的性格が強い場所です。藩主が表向きへ招待した親しい客や親戚をもてなした「御客座敷」があり、藩主の居間「御座之間」、そして「御亭」が並びます。さらに奥には、藩主のお世話をする女性たちが住む「局」があります。
 御亭は、表御殿の中で唯一の、2階建ての風雅な建物です。藩主がのんびりくつろぐために建てられました。御亭の起こし絵図には、床の間の壁は「西円寺壁」と書かれていました。いろいろ調べたところ、米原市西円寺の赤土を使った壁であることがわかり、再現しました。

 大堀切と出郭
 西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を阻止するため、尾根を断ち切るように大堀切が設けられている。大堀切に掛かる木橋の外にあるのが「馬出し」の機能を持った出郭である。『井伊年譜』には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられている。

 西の丸三重櫓のみどころ
西の丸三重櫓の内部 一、西の丸は、三重櫓と東側の多聞櫓は、西側の多聞櫓からの続櫓で防御されている。
二、三重櫓の三層部分は、監視と見張り用に窓が設けてあり、一、二層は攻撃用として城外側だけに窓がある。言い換えれば、攻めてきた相手を攻撃する櫓と言える。
三、彦根城内には三つの三重櫓があり、西の丸三重櫓(天守・山崎郭)はその一つである。
四、西の丸三重櫓は、嘉永六年(1853)大修理され、柱や梁の8割近が移築時のものから江戸時代後期のものに取り替えられている。
五、移築時の立証として転用材が、階段の床板や側柱等にほぞ穴痕が残っている。
六、西の丸三重櫓は、湖上からの攻撃や裏門からの要塞として、竪堀・登り石垣や廊下橋の縄張りも施されている。
七、彦根藩筆頭家老の木俣土佐守も常時三重櫓に詰め、湖上の警備・監視に努めている。

 重要文化財 西の丸三重櫓
西の丸三重櫓  彦根城内には、天守の外にも2棟の3階建物が在りました。1棟が現存する西の丸三重櫓で、もう1棟が明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓でした。
 西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出しています。堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦め手(裏手)方面からの敵に備えた守りの要でした。
 この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風などがありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。この建物は浅井長政の居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。同時に解体修理によって、柱や梁などの部材の8割近くが、江戸時代後期の嘉永六年(1853)に実施された大修理で取り替えられていることが判明しました。今日見ることのできる西の丸三重櫓は、築城当初ではなく江戸時代後期の姿と言って良いでしょう。
 なお、彦根藩井伊家の歴史を綴った『井伊年譜』を見ると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐に預けられていました。当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務するのを常としたようです。

『彦根城案内』より

【戻る】

資料 【地図を表示する】
 

私見
この馬もお気に入り 彦根城の天秤櫓 西の丸を降りる 日本にある国宝4城のうちのひとつ、彦根城は回りの町並みをも含めた一大観光地となっています。専用駐車場に車を止め、そばにある井伊直弼の石像の前を通り、入城料500円を払っていよいよ登城です。薄暗い石段を登った先には天秤櫓が見えます。立体交差となった通路はなかなか面白い造りです。さらに太鼓門櫓、天守閣に西の丸櫓と、彦根城は本当に見所が多くありますが、やはり一番は天守閣でしょうか。千鳥破風、唐破風と縦横に展開した天守の美しさは確かに国宝だけのことはあります。ま、私の個人的な好みで言わせてもらうと、銃創や矢傷を刻み込んだ戦禍が今日まで残っている荒々しい城が好きなんですが・・・・
天守閣に入るといつも思うのですが、どうしてあんな急な階段で当時の人々は我慢していたのでしょうか。越前の丸岡城しかり、尾張犬山城しかり。目の前で子供が一人滑り落ちてました。(^_^;;
当時もそんなうっかり者がいたのかもしれませんね。
御好屋形舟でお堀めぐり 大人気、ひこにゃん  初めて彦根城を訪問してから何度目でしょうか。以前には見られなかったものがいくつもあり、大変賑わいを見せています。その一つが御好屋形船でのお堀めぐりですね。お城の堀を舟で巡るのは大好きなのですぐに飛びつきたいところですが、大人1200円にちょっと腰が引けてしまいました(^^;。また来よう。そして、なんといっても今や彦根の代名詞にもなっているほどのひこにゃん。この日は雨でしたので室内での撮影会でした。すさまじい人気には圧倒されっぱなしでしたが、撮られる側のひこにゃんも実に芸達者でそして愛嬌たっぷりにポーズを決める様子を見ていますと人気があるのも頷けます。
 さて、登城しましょう。幅の広い石段をあがっていくと天秤櫓をみあげながら左へまわります。そしてすぐに本丸を目指さずにさきほど上がってきた石段の上から登り石垣を確認することにします。彦根城には国内では珍しい登り石垣と呼ばれるものがあり、斜面を登っているかのように積まれた石垣が5箇所もあるのですね。よく見ると脇に竪堀もありますが、石垣とセットで防御を成しているのですが、竪堀は外側に来ることを考えますと防御対象として表御殿、米蔵を重要視されていたのかなということが想像できますでしょうか。そうそう、米蔵と言えば思い出しました。彦根藩は35万石と言われていますが、実際には30万石だったそうです。残りの5万石は幕府から常時預かり米として備蓄していた米がちょうど5万石分あり、飢饉の際に活用するためのものとして大切に保管され、米蔵に置かれていたようです。それだけこの彦根城が大切な役割を担っていたということでしょうね。
天秤櫓、内部から 西の丸三重櫓は内側は物足りない  さて、本丸を目指しましょう。彦根城の天守は、煌びやかで周囲に魅せるお城といった感じでいいですね。でもそれは後回しにして西の丸三重櫓を目指します。内側は窓がありませんのでとっても寂しいものがありますが、L字状に渡櫓とセットになっている形状と、外側に向けられた敵に対する意識が伝わってくるようですね。そしてすぐ外にある堀切も生々しく感じるほどです。
なんだか一般の彦根城のイメージからかけ離れていっているようで、それ以上はやめておきます。ただ改めて感じますが彦根城は様々な城好きに対応できている国内でも貴重な城ですね。ただ現存天守が残っているというだけじゃなく、大坂城包囲網の中にあり、北陸方面にも目を光らせていた徳川方の重要な拠点でもあり、ひこにゃん好きにとってみれば聖地となっているかもしれません。何度か訪問するたびに新しい発見がある名城であることは間違いないと思います。
【戻る】