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久留里城跡
登城日:(2003.05.10)
所在地: 君津市久留里
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
二の丸跡から本丸跡へ 久留里城模擬天守。  久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城」と言います。
 戦国期の十六世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532〜55)の後半になると、安房の里見義尭は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
 永禄七年(1564)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条氏の手に落ちています。しかし、二年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。
 以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が三万石、慶長七年(1602)には、土屋忠直が二万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家二代目の利直に仕え、十八〜二十一歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。三代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝七年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。
 約六十年後の寛保二年(1742)、黒田直純が三万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、九代直養の時、明治維新を迎え、明治五年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。

◆二の丸・長屋塀跡
 この長屋塀は、二の丸の西側に位置し、眼下に三の丸を望む場所に建てられました。
 本来は、多門櫓に近い性格の建物ですが、寛保年間の絵図に「長屋塀」と記されているところから、この名称を使っています。
 長屋塀は、細長い形をした長屋風の建物で、用途は主として諸道具を収納する倉庫に用いられていたと思われます。
 調査の際確認した礎石は、全体の約二分の一程度でしたが、配列状況から判断して、長屋塀の規模は絵図に記載されている通り、ほぼ十間(十八メートル)x二間半(四・五メートル)であると推定されます。
 礎石のつくりは、天守台に比べてかなり粗雑で石質も悪く、ノミによる整形の跡がみられます。これらの礎石は、ほとんどが赤褐色の砂岩で、二の丸から切り出した石を使用しています。
 また、礎石からおよそ一尺(三十センチ)程離れたところに、軒に沿って瓦が立てた状態で埋められいていますが、これは、軒からの雨だれを受ける「雨落ち溝」の役割を果したものと考えられます。
本丸手前にある井戸跡 天守台と模擬天守 ◆本丸・天守台跡
 この土壇は、寛保三年(1743)から延享三年(1746)にかけて、黒田直純が城を再築した際築いたと思われる天守の跡です。
 礎石群は、昭和五十二年に実施した発掘調査によって検出され、きわめて貴重な遺構であることが確認されました。
 礎石の配列は内側と外側の二重に配され、内側は二間(3.6メートル)x二間の正方形、外側は三間(5.4メートル)x五間半(9.9メートル)の長方形を呈し、絵図とほぼ一致しています。
 これらの礎石の配列状況から判断して、建物は二階二層であったと推定され、近世初期の天守の様式である望楼風天守に類似していたように思われます。
 礎石は、二の丸から切り出した砂岩を使用しており、いずれも赤褐色で鋸引きの跡が残っています。また、砂岩の中に一部白色のシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)がみられますが、これらは土台石として用いられたと考えられます。
 天守台の構造は、上面に厚さ十センチ程度の粘土を敷き詰め、その下に径二〜四センチの石を十センチ程並べ、次に若干大きめの石を地山まで詰めているものと推定されます。
 また、上部の周囲に回らされている瓦は、土圧から台を守るための措置であると思われます。
◆土塀跡
 写真にみられる土塀跡は、再建した天守のほぼ裏側から検出されたものです。
 寛保三年(1743)の絵図によれば、本丸の土塀は、前面のみしか図示されていませんが、発掘調査によって後側にも土塀が回っていたことが確認されました。
 礎石に使用されている石は、ほとんどがシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)で、きわめて密に敷き詰められています。
 本丸の周囲には小高い帯状の土塁が残っており、表面に漆喰や粘土の塊が認められることから、これらは絵図に示されているように高さ六尺(1.8メートル)、瓦葺き、塗籠の土塀が崩壊したものであると考えられます。
 なお、調査の結果、この土塀は写真手前の部分で途切れていることが判明し、この付近に出入口が設けられていたことが推定されています。

『久留里城跡案内板』より

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資料  

私見
現在の登城道となっているのは嘗ての空堀跡 天守裏手にある土塀跡  久留里城は大多喜城とセットでずっと前から訪問計画をたてていたところでした。バイク移動だと両城間ってたいした距離じゃないんですよね。(^^V
 で、久留里城へいくには麓にある駐車場に車を停めて、かなり急な坂道を登っていくことになっているようです。が、私は二の丸跡までバイクで上っていきました。楽をしたかったのですが、やはりここは歩いてのぼられることをお奨めします。途中かなり深かったんだろうなぁということが体感できる堀底道を歩かされるんです。上から攻撃されたらひとたまりもないなぁと思うと恐ろしくなってくるほどでした。
 さて、二の丸には資料館があり、長屋塀跡も復原?されています。そこから本丸へはかなり距離があるんですが、天神曲輪、井戸跡などを経て本丸につきます。本丸跡には模擬天守が建てられているのですが、個人的にここの天守は結構好きです。さらにその左隣には天守台跡がありますから「模擬天守はちょっと・・。」って方にはこちらをどうぞ。ただし里見氏のじゃなく、黒田氏時代のものなんですねぇ。
 里見氏全盛時代見事な山城を堪能し、また時間があれば、尾根伝いに残る伝古久留里城も訪れてみてください。夏場は・・・ちょっと大変かも。こっちは行ってないので分かりません。
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