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古国府城跡
登城日:(2003.05.25)
所在地: 高岡市伏木古国府
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
勝興寺境内では象徴的な建物です。  古国府城は古くから越中の国府が置かれたところで、現在も地名としてその名残がよく残っている。戦国時代、射水・婦負郡の守護代であった神保氏は、初め放生津城に居城していたが後に守山城(二上城)に移り越後勢に対抗したが、当時古国府城は神保氏の出城の一つであったようだ。

◆越中国府と国庁址
 勝興寺を中心とする一帯の地は、奈良時代から平安末期にかけ越中を統治した国府のあとである。
 国府とは国庁所在地の意である。伏木は当時越中国(能登をふくむ)の中央部にあたり、港津をひかえ早くから開けていたのである。国府は約二丁四方(220平方メートル)の国庁を中心として碁盤の目のように区別されていた。
 国庁の位置は、勝興寺境内で址碑の建っている附近と推定される。
 越中国府役人(国司)の長官を越中守といい、記録上初見の人は田口年足である。
 歴代国守中でも特に有名なのは大伴家持で彼は五年有余在任しその間この地で詠んだ数多い歌は万葉集に集載されている。この附近には国分寺跡もあり国庁にちなんだ数多くの地名が忌めに伝わっている。
堀跡?のような溝 ◆勝興寺の歴史と宝物
 文明三年(1471)本願寺八世蓮如が北陸布教の途中、砺波郡土山(現在の福光町土山)に一寺を建て土山御坊と称した。これが勝興寺の前身である。
 明応三年(1494)に砺波郡高木場(福光町高窪)、永正十六年(1519)砺波郡末友安養寺村(小矢部市末友)へと移転し、それに伴い勢力を拡張し、井波の瑞泉寺とともに一向一揆の中心として活躍した。
 天正九年(1581)に木舟城主石黒左近によって諸堂舎を焼かれた勝興寺は、天正十二年(1584)に佐々成政を介して神保氏張より現地古国府の地の寄進を受け翌年、越中に入った前田利長も制札を与え安堵した。
 この頃より勝興寺は加賀藩および本山と密接なつながりをもつようになる。第十三代昭見の室は本願寺准如の女、第十四代円周は准如の男、その室は加賀藩三代藩主利常の養女、第十八闡真は六代藩主吉徳の八男で後に還俗して十一代藩主を襲封し治脩と名乗る。十九代闡郁は本願寺法如の男、室は治脩の養女、二十一代は本如の男等である。
 このような勝興寺の格式や来歴を物語るものとして数多くの寺宝がある。武田信玄、浅井長政、豊臣秀吉、佐々成政、神保氏張等の文書、蓮如、顕如等の筆跡や文書は一揆活動華やかなりし頃の好資料である。
 絵画、工芸品は縁組みの際持参された大名道具、公家調度品であり、洛中洛外の図、日月の図屏風を始めこれらの寺宝のうち、工芸品二十八点、絵画・彫刻十六点、書跡十三点、古文書百八十点が富山県文化財に指定されている。

◆勝興寺式台門
 構造・形式-三間薬医門・切妻造・本瓦葺
 勝興寺の伽藍は、東に面して総門、その内側に太鼓楼が建ち、境内の南側に山門、経蔵、本道を、北側に式台門、大広間、鉄砲の間、庫裡、書院、茶室等の殿舎を配する。
 式台門は、大広間、表書院、奥書院の対面所にいたる正式の門として、書院造に見合うような構成で、薬医門の形式が採用され、寺格の高さがうかがわれる。
 この門の特徴は、全体に木割が太く、重厚な姿形を持ち、装飾彫刻を男梁の絵様操形、組物の肘木鼻に限定し、実用性を強調している点があげられる。
 なお、門に附属する向唐破風、出格子窓を設けた門番所と袖塀が式台門に風格を添えており、これらも指定されている。
 この建物は、本堂の再建に合わせて安永四年(1775)に建てられたと伝える。
見事な山門 ◆勝興寺唐門
 附 棟札一枚
   旧獅子口一個
 この唐門は、「取調書」(勝興寺蔵明治に十九年、再調)には明治二十六年に建築されたと記録されている。一方では京都「興正寺」の唐門を買い受け北前船で運び現在地に移築したという伝承もあった。
 このように唐門の建築年代や由来等については従来は不明であったが、その構造や意匠が勝興寺の他の建造物群とは異質であるとの指摘もかねてよりなされていたところ、近年の調査により建築年代と由来等が判明した。
 昨年の調査で寺務所より発見された棟札と本堂床下に放置されていた旧獅子口の箆書きにより、明和六年(1769)に京都「興正寺」で建築されたことが確認された。
 また、小屋裏等には移築された痕跡が明瞭に残っていたことにより明治年代に勝興寺に移されたことも推定された。
 この門は、銅版葺切妻造屋根の前後を唐破風造で通した「前後唐破風造」という全国的にもあまり類例のない形式をとり、全体的には木太い均整のとれた建物で、牡丹唐草の腰欄間や雲波龍の欄間あるいは、妻飾りの太瓶束の笈形等の各所にもちいられた絵様や彫刻は時代の特徴をよくあらわしている。

『現地案内板』より

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資料
 

私見
この先は残念ながら工事中です  守山城跡を抜け、山道を下りていくと古国府城があった「国府」付近に行き着きました。勝興寺の境内が城跡とされているのですが、よくわかるのは周囲を取り囲んでいる堀跡と土塁でしょうか。残念ながらこの日は境内は工事中となっており、深く中にまでは踏み込むことができませんでした。
 とはいえ、望楼や山門など、古い建築物はさすがにその存在感は抜群です。ただ黙ったまま眺めていた自分が思い出されます。
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