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高砂城跡 登城日:(1999.01.16) 所在地: 高砂市高砂町東宮町、高砂神社 |
| 歴史 |
高砂城の記録はあまり残っておらず、はっきりした起源は不明ですが、梶原氏が治める城として天文七年(1538)に登場してきます。『高砂市史・高砂町市史』。古くは寿永三年(1184)に、梶原景時が播磨国の守護として命じられたのがきっかけのようです。 高砂城が「海城」として改めて登場したのが、天正六年(1578)の羽柴秀吉による三木城攻めからです。三木城主、別所長治の有力武将であった高砂城主、梶原平三郎衛景行は、世にいわれる『三木の干殺し』に対して、最後まで兵糧の供給基地として播磨灘の海上を押さえていました。 そこで、秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始しました。寄せ手は一千騎で攻め寄せましたが、景行は三百余騎で、毛利の援軍の甲斐もあって見事打ち破りました。が、その後の秀吉軍の大軍の前にはなす術もなく、あえなく落城の憂き目となりました。 その後、慶長五年(1600)の後に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築きましたが同時に播磨の海の守りを固めるために高砂城も築いたのです。中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わったようです。 しかし、その立派な城も元和元年(1615)に出された『一国一城令』により破棄され、短い歴史を終えました。 参考資料『ひょうごの城紀行(下)』神戸新聞出版より
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| 資料 |
| 私見 |
この高砂城も神吉、三木、志方城などと同様、大軍を擁する秀吉軍に果敢に反抗し、そして散っていきました。この勇敢さ、あるいは愚直さとでもいうのか、播磨武者特有の気質なんでしょうか。例外はあっさりと主君、小寺氏を見限って秀吉についた黒田勘兵衛くらいですね。城の遺構はほとんど残っていませんでした。ついでに近所の十輪寺にいって梶原平三郎衛景行の墓石を拝んで帰ろうと思って寄ってみましたが、全然見つかりませんでした。だってねぇ墓ばっかりで・・・(^_^;
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