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大峪城跡
登城日:(2003.05.25)
所在地: 富山市五福、五福小学校
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 五福小学校が建つ城跡  この城跡は、豊臣秀吉が富山城の佐々成政を攻めた天正十三(1585)年頃のもので秀吉側の軍勢が陣地とした白鳥城の出城として、婦中町の安田城(国史跡)とともに築かれた。
 前田利家の家臣片山伊賀守延高が城を守りこれにちなんで「伊賀城」とも呼ばれた。
 文化九(1812)年に測量を行った富山藩士渋谷孝本・安達直章らの記録によれば、城の構造は、本丸とその東にある二の丸、これらを取り巻く総曲輪からなり、南側を流れる井田川から水を取り込んで、周囲に堀をめぐらしていたことがわかる。
 現在五福小学校校舎のある高台が本丸跡と推定されている。

『大峪城跡案内板』より

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資料  

私見  五福小学校の前まで来ますと、校舎が高台にあり曲輪跡の上に建てられているということがすぐに分かると思います。思わず車で突っ込んでしまい、慌てて退散したのですが、やはり学校には慎重に城めぐしないといけませんね。
 で、Uターンして道路脇まで戻ったときにフェンス手前に案内板があることに気がつきました。こんな状態だというのにしっかり案内板はあるんですね。しかし城址碑を見つけることはできませんでした。
 それだけじゃぁ、ってことで学校の周りを一周したところ切岸のような斜面は確認できたのですが、土塁はよくわかりませんでした。陣城の出城だというわりには立派な曲輪跡だなぁ、ってことで十分かな、ってところです。
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